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3月, 2022の投稿を表示しています

【まとめ】新・人間革命1巻3章

●本章の本線 1960年、32歳の山本伸一がシアトルとトロントで行った、広布活動 ①初の座談会 ②英字の教本の作成手配 ③シアトルの同志が奮起したきっかけは? ④極悪登場 ⑤飛行機搭乗できず!?(モルトン空港とミルトン空港)、諸天善神の働き。 ●本章の枝線 ①テープレコーダーに秘められた心(タエコ・グッドマン) ②靴底ステーキ事件 ③伸一会長就任日が、お葬式? ④伸一在住の座談会と、伸一不在の座談会。明確に違っているはなぜ? ⑤ローザ・パークスとマーチンルーサーキング。人種差別の根本的な要因とは? ⑥仏法用語「縁起」について ⑦仏法用語「地涌の菩薩」について ⑧若者の自滅覚悟の単独テロ。その悲劇の根本理由は何か? ●P.S. 新人間革命の小説の構成 本線・・・山本伸一(主人公)の行動の軌跡 枝線・・・(本線に縁する主人公目線での)一話完結型(主に周りの人達や環境に焦点) この小説では、2つの軸(本線と枝線)の流れの中を泳ぐことになります。 主人公の日本や世界を相手取るリアルさ、その主人公を取り巻く現実とその解釈(感性)にふれることができます。 ここでは、「どの巻のどの章に、どんな内容が記載されていたっけ」を2軸(本線と枝線)という視座で整理しています。詳細は本書を開き、ご確認くださいませ。 以上

【体験談】扇子の縁(えにし)

●はじめに 一昨日、金剛堂へ訪れました。 自宅の御本尊様の前で、題目をしていると「扇子が欲しい、無性に欲しい」という思いに駆られたのです。 私は、日常で扇子を使っていませんが、なぜか、そう思い立ったのです。 そして、電車に乗り、扇子を買いにいきました。 店に到着した時、店員さんとおばあちゃんがテーブルで会話してました。私を含め計3人。 私は店の中を1廻り。目的の扇子を入手しました。 レジにもっていくと、店員さんがコーヒーを出してくれました。 少し休憩しようと、おばあちゃんが座っているテーブルの前の椅子に腰掛けて温かいコーヒーを楽しみます。 ●会話 おばあちゃんと目があいました。笑顔で答えると、会話が何気なく始まりました。 「どちらからきたんですか?」と。雑談開始です。 何してる人なの?学会員さん? こちらの方ですか?いつもこのお店にいらっしゃるんですか?などなど。 素性の探り合いから始まり、受け答えなどの人となりを交流しながら掴み合います。 するとおばあちゃんが、ポロッと言いました。 「宗教ってなんでしょうか?」と。 「おっ、」と思いました。 初対面の見ず知らずの男性である私に対し、かなり、突っ込んだことを話題に選ばれておられる。 「何か、、抱えておられる。何かを話したがっている」 姿勢を正し、おばあちゃんの目を見ながら、体を正面に向けます。 「聴く準備、整えました」をアピール。 おばあちゃんの声を待ちます。 再び深く言いました「宗教って、なんでしょうか?」 ●宗教ってなんでしょうか? ぼやっとした質問です。ですので、この質問をする意図は何か?をひっぱりだすことを目指しました。 まず、「宗教」という概念についての共通認識を揃えようとします。私にとっての当たり前を、確認して土台作りを行う。「宗教って、人それぞれの価値観で見え方違っていると思います」と。 すると意外な反応「それぞれ、そうですよね。。」と。 ん!?その部分で共通認識が違っている。 (言い換えますと、このおばあちゃんは人それぞれではない=単一である、と認識されている?) 唯一神(絶対神)のように日蓮仏法を捉えられておられるのか? それとも日蓮仏法以外の宗教との縁に悩まれておられるのか? すぐさま話を変えます。相手が切り出しやすそうなキーワードを並べてみます。 「キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教」など色

【まとめ】新・人間革命1巻2章

●はじめに 私は新人間革命を読みながら「どの巻のどの章に、どんな内容が記載されていたっけ?」を後で取り出しやすいように整理していきます。 ●本章の本線 1960年に32歳の山本伸一が、サンフランシスコに降り立って、多くの地区を結成していったお話。サンフランシスコ在住の学会員との心温まる交流や、アメリカ同志へ3つの指針がメインストーリーです。 <補足>アメリカ同志へ3つの指針  1.市民権をとり良きアメリカ市民になっていただきたい  2.自動車の運転免許を取るにようにお願いしたい  3.英語をマスターしていただきたい ●本章の枝線 ①サンフランシスコと日本の関係って?  (日米修好通商条約、サンフランシスコ講和条約) ②政治と宗教の次元切り分けのポイントとは?   (岸内閣による日米安保条約(不平等条約)の改正と、警職法、全学連の学生運動) ③黒いジェット機事件とは ④初めに作る組織。あなたなら何を作る?  (学会の前線基地であり日常活動のいっさいの機能を持つ組織とは?) ⑤学会のお金の扱いって?  (訪問幹部にご馳走するために皆から集金しがたユキコ・ギルモアさんへの伸一の指導) ●P.S. 新人間革命の小説の構成 本線・・・山本伸一(主人公)の行動の軌跡 枝線・・・(本線に縁する主人公目線での)一話完結型(周りの人や環境に焦点を当てている話) この小説では、2つの軸(本線と枝線)の流れの中を泳ぐことになります。主人公の日本や世界を相手取るリアルさ、その主人公を取り巻く現実とその解釈(感性)にふれることができます。 以上

【まとめ】新・人間革命1巻1章

私の捉え方になりますが新人間革命の小説の構成は2つの流れがあります。 1つ目は、本線の流れで、山本伸一(主人公)自身の広布活動 2つ目は、枝線の流れで、(山本伸一自身の行動が縁となって発生した山本伸一ではない)サブ主役の短編小説(一話完結型の話) 新・人間革命を読み進めていくと、この2つの軸(本線と枝線)の流れの中を泳ぐことになります。 そして、普段考えないこと・気づかないことに触れ、現実を見る目(感性)を高めることができます。著者である池田先生は、世界の人をターゲットにした枝線の選別や表現にも心を砕かれていることが随所でわかります(日本人”だけ”向けの書籍ではない)。 他にも多くの宝が眠っている本だと思います。 そのため、私は何度も読んでいますが、その都度気づくことがあり、池田先生の思慮の深さや配慮の広さに驚かされます。 ●新人間革命1巻の1章(旭日)を取り上げますと、 (A)本線 (一言でいうと、この1巻1章は)1960年に32歳の山本伸一が、世界広布の第一歩としてハワイ訪問を行った話が記載されています。 (B)枝線 ①世界広布の展開に必要な準備(翻訳、連絡網など)って? ②日本とは異なる文化圏の人たちへ何を配慮する? ③(仏法の法理の一つである)随方毘尼(ずいほうびに)とは? ④ハワイ在住の日系人が受けた戦争の辛酸 ⑤ヒロト・ヒラタさんの功徳体験(祈りとして叶わざるなし) ⑥海外で生活をする日本人の持つ悩みと伸一の激励(謗法と謗法でないことの境界って?) といった内容が記載されています。 ●今後、 私の読書感想を進めていきます(大学校でもチャレンジしたい内容です) 。 そして、「どの巻のどの章に、どんな内容が記載されていたっけ」と頭に残しておきたい(自在に取り出したい)ため、この2軸(本線と枝線)という視座で、後で取り出しやすいように整理していきます。 人に奨めたい本ですから「何が書かれている本なの?」に対して明確に答えれるように準備しておく、という目的もあります。 以上

【池田先生ご指導】個人指導前の基本姿勢

池田先生が、新人間革命(27巻、296ページ)にて、個人指導の基本姿勢についておっしゃっています。 新人間革命って、「あるシーン」に縁した時に「自身がどうしたらいいんだろう」と思ってからが面白いんですよね。 池田先生の視点からみた「あるシーン」とそのシーンに対する「具体的な行動」と「結果」が記載されています。現実に起こりうる課題や問題の捉え方や、対処の要諦が 疑似体験できる点が面白いです。 ●個人指導の基本姿勢 ①決して、感情的になってはならない  指導する側が感情的になれば、指導される側(学会員)は心を開こうとはしなくなる。そうなってしまうと、どんな言葉(指導、激励)も届かない。 ②個人指導は、どこまでも信心の確信が根本である  指導する側の大確信をもって、相手を揺り動かせる。結果、触発していくことになる(その後、理路整然とした説明も活きる)。 ③相談を受けた内容を他言しては、絶対にならない  相談を受けた話が漏れれば、学会全体に対して不信が生まれる。広宣流布を破壊する重罪となる。 ④粘り強く、包容力豊かに、指導の任に徹していく  活動に参加していない人のお宅にお邪魔し個人指導したからといって、すぐに発心することはまれ。だから、折をみてまたお伺いして、根気強く、励まし続けていく。  そして、個人指導によって相手の方が奮起した場合でも、その後どうなったのか、悩みは克服できたかのか、と心を砕き、電話でも手紙でもよいから連絡をとっていく ⑤抜苦与楽こそ、個人指導の大目的である  さまざまが悩みをかかえて苦しんだ末に指導を受けている。だから、指導する限りは「その悩み、苦しみが少なくなるように励ましていく」 私の備忘録に近い投稿です。私が外に出ている時に、この箇条書きを読み心を整えるために。 以上

【2022年4月座談会御書】四菩薩造立抄

私がもし座談会で御書講義を行うならば、以下のようにお伝えしようと思います。 (過去の大白蓮華、聖教新聞を参考として)私の個人的見解も含まれております ●スクリプト 大白蓮華の52ページを開いてください。 今回の拝読御書は、 四菩薩造立抄(しぼさつぞうりゅうしょう)です。〇〇が御書講義にチャレンジさせていただきます。 御文(おふみ)です。 そうじて にちれんが でしといって  ほけきょうを しゅぎょうせん ひとびとは にちれんがごとくに しそうらえ さだにもそうらわば  しゃか たほう じっぽうのふんじん じゅうらせつ  も おんまもり そうろうべし ●通解(つうかい)です そうじて にちれんのでしといって ほけきょうを しゅぎょうするひとびとは、 にちれんのようにしなさい。 そうするならば、しゃかぶつ たほうぶつ じっぽうふんじんの しょぶつ じゅうらせつにょ も かならず しゅごされるであろう ● このお手紙は、1279年に58歳の日蓮大聖人が山梨県の身延山中から 千葉県の弟子の中心者である富木常忍へ送ったものです そして、今回の範囲ですが、その前後である御書の内容がかなり関連しているのでそちらをご紹介します。 新版御書では1338から1341ページに該当しており、3つの章から構成されるお手紙です。今回の拝読御書は2章です。 ● 1章は、富木常忍からの 「末法につくられる像(末法の釈尊や四菩薩の像)はいつ建立されますか?」 という質問に対して、大聖人がお答えされています。 「末法の初めに菩薩のリーダーが出現して造立する。そして大聖人がその菩薩のリーダーである」と。 (そして、このお手紙の前に、大聖人はすでに曼荼羅本尊を顕したと「勧心本尊抄」にあります)。 いつ建立も何もないのです。像の認識が違っているということです。いわゆる「"モノ”信仰になってしまっている」。 富木常忍たちは、己心の”外”に法を求めようとしている節が見られるのです。 つまり、富木常忍たちは大聖人からずれてしまっている状況なのです。 おそらく、富木常忍やその周りの弟子は 「鎌倉時代当時の他の宗派の仏像乱立の状況に影響を受けて、他の宗派のような人型の像がないと思い込んでいる。日蓮大聖人とは違う、独自の説(”モノ信仰”)に傾きつつあった」ことが推察されます。 同じページの御書内に「もっての他

富木尼御前御返事(ときあまごぜんごへんじ)

 <はじめに> 日蓮大聖人から富木常忍の奥様(尼御前)へおくられたお手紙です。 富木常忍が大聖人の所へ、他界された母の遺骨をもって訪れました。 その時、富木尼御前(奥様)は具合が悪い状況でした。 その帰り道に富木常忍にこのお手紙をもたせました。 一家のお母さんで、お嫁さんで、義理の母を介護して。 <私の視点> このお手紙(新版御書の1316~1317ページ)を読んだ時に、アレ?!と感じました。 それは富木尼御前を名指しでお手紙を書かれている、という点に。 富木夫妻宛ではなく、です。 大聖人のなされたことです、何か理由があると思いました。 まず、この手紙を受け取った時の状況を整理してみます ①(奥様)は体調を崩していた ②夫がそのタイミングにいなかった(日蓮大聖人の元へ訪れていた) ③夫の母(奥様から見て義理の母)が亡くなっている、ということは奥様が介護をされていた。 次に、大聖人から届いたお手紙の内容(少し砕いた表現で)を整理してみます。 ①矢が飛ぶのは弓のおかげです、夫の活躍は妻のおかげです。 ②夫をみれば妻もわかる。夫が訪れてきたということは、妻のあなたも訪れてきているとみています ③夫(富木殿)が言っておりましたよ「母上が亡くなったのは悲しいですが、妻が手厚く看病してくれたおかげで、その臨終の姿がよかった」と。大変喜ばれておりましたよ。 ④病がある人でも世の中の無常(この時、蒙古到来中)にはさらされる。そのときには、今心配をしていない人も、心配せざるをえなくなるだろう。 ⑤私達は(妻のあなたも)必ず仏になること疑いはないから、何の心配がありますか。釈尊の義母( まかはじゃ は だいびくに、というTHE婦人部 )に続いていっていってください。題目です。すべて題目です。 <私の感想> これら(状況と内容)を考慮していますとみえてくるものがありませんか? 大聖人が「今までの尼御前の心労」を汲み取られております(その場にいないのにこれだけのお手紙を書けるのですから)。 そして「これからの尼御前の心労」を和らげようと、励まそうとなされている。 大聖人は、かゆいところに手が届くというか、一番その奥様に必要な言葉を選んで届けられている(実際に、尼御前がそこを気にしていたのかは私にはわかりません、しかし大聖人はピンとくるものがあったんじゃないでしょうか) だから、 2回も3回

戸田先生のご叱咤2連撃

  ●<はじめに> 私は、自身の個人事業を元に法人化を計画しています。 そのため、過去の創業体験(5種類)の失敗・成功を思い出しつつ、題目を上げながら以下のように思考を進めていました。 ①一つ一つ頭によぎっていることを、粒度を問わずノートに書き出します。 ②書き出されたものを見ながら、気づいた粒度を細かくしたり、 荒くしたりして今の私の境涯から見た目標をより具体的にしていきます(心の赴くままに) ③その目標を達成するための具体的な手段や、必要となる縁(準備物)をイメージして書き出していきます。 あっというまに2時間程度題目があがりました。 頭の整理(計画、具体的行動のイメージ化)が少し進んだので、一息入れました。 ●<働き者、諸天善神> その直後、(休憩がてら)何気なく見たSNSのトップに戸田先生のご指導が。 『 本部で厳しく禁じているにも関わらず、学会員同士で共同事業を行うという幹部がいるとすれば、それは真面目に信心即生活を実践していない証拠です。 』 ドキリ。 『 信心していれば、事業の方はなんとかなるだろう、学会活動さえしていれば棚からぼたもち式になんとかカネも手に入るだろう、そんな甘い考えでいるのは大謗法です。信心が強くなればなるほど、金銭に対しては厳格な態度で臨むべきです 』 ドキリ。 いきなり休憩時間に戸田先生の叱咤パンチの2連撃を受けたのです(ご指導を二度見しました)。(いやはや休憩になりません) 確かに。。 そのような心が奥底にあったんだ と感じます ( それがあった、と感じる理由は、このご指導を受けた時に”どきり”としたため。そして軽い反発(これは私にあてたことじゃないよな、考えないでおこう、、とういう増上慢の気持ち)が生まれたためです )。 諸天善神が(SNSという姿に化けて)届けてくださったのです。 すぐに反省しました。 そして、この後の題目で、私の心にある奥底が「広布のため」なのか「私自身の浅い欲を満たすため」なのかを変えねばなりません(もし奥底が私事ならば(広布のためでなかったならば)過去の創業体験(のうち、負けたことのある経験)上、何をしても最終的に負けます)。 そして、今のこの投稿(日記)に至ります。熱々の気持ちのまま、この投稿を書きなぐっています。 でも、、ありがたいことです。 「信心については、必要な情報がぱっと顕れる」現象がまたも

鞄の中の「ブラボーわが人生」の力

「ブラボーわが人生」という書籍が、第三文明社から出版されています。 私はたいてい本屋や聖教新聞で新たな本と縁するのですが、この本との縁は少し特殊でした。 ●はじめに 私は新たな仕事のため上京しました。そして、仕事の成功をご祈念しようと信濃町にでかけました。そして(コロナ禍の前でしたので)信濃平和会館で勤行をあげました。 2Fである程度満足するまで勤行した後、1Fにあるフリースペースでお水を頂いていました。そして、偶然お水を飲んでいる時に、その壮年部の方も水を汲みにいらっしゃいました。せっかくなので雑談を楽しもう、と思い私は声をかけました。 ●壮年部との交流 私「こんにちは、私はxxから来ました。あなたは地元の方でしょうか?」 壮年部「いえ、宮崎県からきました」 そこから少し色んな雑談になりました。その中で私は「何かオススメとされている本ありますか?」と。すると壮年部の方がかばんの中から「ブラボーわが人生」を出しました。 そして、48ページをお開きになり「死は衣替え」の箇所をお話になりました。 私は、このフレーズが気になりました。そして、どういう内容なのだろうか?と思いました。「この箇所(死は衣替え)がなぜ心に残っているのでしょうか」 すると、壮年部の方は自身の体験談をお話くださいました。 ●壮年部の体験談 壮年部の人は、「私の母が他界したときのことですがね」と話を初められました。 そのお母さんは、自身(壮年部)とその弟さんのことを気にかけておられた。 しかし、その弟さんは信心が薄かった(していない)ようです。 そして母の通夜の時に、壮年部と弟さんは、母の顔を見ながら「題目を2人ではじめてあげた」と。 すると、他界しているはずの母の肌が、どんどん艶っぽくなっていった(若返っていったように見えた)。その姿を見て、壮年部と弟さんはびっくり。美しい相だったと。 死後硬直で固まっていた腕も、その硬直が解けてゆったりした姿になられた。 その変化を目の当たりにした、弟さんは、その後信心を始めたそうです。 母は死しても息子(弟さん)を折伏したのでしょうか。 それを、壮年部の方は熱を帯びながら目を輝かせながら。迫力のあるお姿でした。 私は素直にその話を信じました(ですからこの話が頭に残り、このような場で投稿ができています)。 私は、ブラボーわが人生のタイトルを見ると、この宮崎県の壮年

同苦する前の心構え

●いつの新聞? 2022年3月12日(土) ●どのページ? 12ページの記事「WITH あなたと」 該当記事 ※無料の聖教新聞電子版で閲覧可能です。 ●記事概要 作家・絵描きの坂口恭平(きょうへい)さんが開設された「いのっちの電話」についてです。開設理由は、本家本元のいのちの電話はかけてもなかなかつながらなかった。だから僕がやろう!とされた。 ツィッターで自分の電話番号を公開したと。そのことに対して本紙(聖教新聞)のインタビューア)が多くのことをお聞きしております。 ●私の感想 私は、このような電話相談があることを初めて知りました。 「 いのちの電話(一般社団法人 日本いのちの電話連盟) 」さんの存在(以下からアクセスできます)の個人版を目指されておられる人がすごい!と思いましたの本ブログで取り上げました。 ここで目に止まった箇所は坂口さんの 『でも、自己犠牲はやらない。』 です。 このお考えって、 日蓮仏法の「同苦→抜苦与楽」のことを言い換えておられる、 と。 私は以前同じように窮地の人をなんとか励ましたいと思い動いていたことがあります。しかし、なかなかうまく私自身動けていない(成果がでていない)。 そして、 私はとある創価学会員にこのこと(窮地の人を励ましたい)を相談しました。 すると、このように言われました 「ageofsokaさん、そのような窮地の人との接し方は、同苦です。苦しんでいる心をしっかり受け止めてみようとする。実際にはすべて受け止めれるものではない(AGEOFSOKAさんとその方は違う人なのだから)けど、真剣に受け止めようと聴くのです。その姿勢を伝えるのです」 私は、思いました「すでにしてますよ・・・」と。 しかし、その方はさらにこう言いました。 「ただし、 同苦する時にAGEOFSOKAさんが理解しておく原理 があります。それは、 同苦した相手の今の心が(AGEOFSOKAさんの)縁となり、自分自身もその縁から同じ心が出る、という原理 です。その心がでてくるということを注意していないと、 無意識に同じような行動を選んでしまう恐れがある のです」 と。目からウロコでした。そのとおりでした。同じように「一緒に苦しむ」だけ、です。そして、だんだんと私自身も苦しくなっていたことに気づきます(だって、私が相談を持ちかけたくなっているのですから)。 突き放す

効率の良い学習準備とは!?

  聖教新聞を読んだ後、社会に出る前/出た後の学習とは?!について個人的見解をお伝えしています。 ●いつの新聞? 2022年3月16日(水) ●どのページ? 4ページの信仰体験記事 ●記事概要 若きドクターの信仰体験記事です。 東京都渋谷区で脳神経内科医を勤められておられます。 ドクターですので生半可な勉強を学生時代にされた方です。 そしてその学んだことが、社会に出てからどう活かされたのか?活かされなかったのか? がまとまって記載されています。社会人向けの良い記事です。 該当記事 ※無料の聖教新聞電子版で閲覧可能です。 ●私の感想 この記事には、学習をするときのコツが隠されています。そのコツとは学習前準備です。 本記事で若きドクターはこのようにおっしゃっています。 『当初、1日10時間の勉強を半年続けたものの、模試の結果は振るいませんでした。 そんな時、男子部の先輩から1時間の唱題に挑戦すると、勉強の質が変わると聞いたので、素直に実践してみた。すると、漫然と過ごす時間がなくなり、勉強の集中力が上がることを実感しました』 私はこれを読んだ時、私も同じように実感しました。 そして、集中力が上がる、というだけではないな、とも思いました。 どういうことかといいますと、 1時間唱題すると、人間に備わっている色んな能力も底上げされている状態に変化しているということです。 ※題目前に集中するぞ!とか意気込んでいるわけでありません。単純にご本尊様を見ながら題目を休み休み1時間唱える、それだけの行動。 実際、1時間唱題した後は、自身の感受性がかなり豊かになっています。 (言い換えますと、普段気づかないことに気づくようになっています) (感受性って、自身の感情を揺れ動かしやすい力ですから)記憶力が上がっているようにみえます。 つまり、記憶するという行動は、思い出すために行う事前行動ですから「思い出すことが(感情を伴っているので)苦にならなくなっている」ということです(=結果、記憶力が上がっているようにみえるということです)。 アウトプットが苦にならないから、インプットの質が上がる(=集中力が上がっている)。そして勉強の質が上がる。そして、苦ではなくなるので「長時間の勉強もできるエネルギーがある(勉強の量)」 勉強の質と量を上げるための事前準備が、自然と題目という行動になっているのです。

お金を使うって訓練について

私は、以下のように考えて年一回、広宣流布のために自由に使っていただけるお金を寄付しています。 その中で身で読んだ(行動したことにより得られたもの)をご紹介 します。 ①(私自身の中にある)お金への執着との闘い  お金を使って、本当に欲しい物を集める。お金は道具だからです。そして、大事なものです。実は、欲しい物のほとんどはお金で手に入りません(見かけ上は手に入っているようにみえます)。 ですから、本当に欲しい物を手に入れる補助としてお金を使う訓練が必要なのです。 (どういうことかといいますと、私はお金がほしいのではなくお金をつかうことによって得られることがほしいのです。私はお金コレクターではない。しかしな ぜかお金ばかりみていると見失ってしまう生命のクセがあります。このクセとの闘いです )。   ②私が会館を利用するための必要経費  私自身を鍛えるため、そして鍛えられている人と出会うための場所です。また、地域の緊急避難所でもあります。  この場所(駐車場もあり、申請をすれば自由に利用できる大きな、きれいな設備は、私の生活の中で必要だと思っているからです。 ③大きなお金(法人などのレベル)を使う練習  私は法人としてのお金の使い方を決める時期がありました。  法人としてお金の使い先を決める場合、いくら使うと同じように大事な「どこに使う」という要素で頭を悩ませていました。いくら使うを決めるのは私自身(法人代表として)ですが、「どこに使う」は協力会社さんとのサービス契約にあたります。  ですので、「必要なお金が揃っている」 且つ 「お金を使う先が良縁である」必要があります。しかし、大きなお金を使う経験不足でしたので、費用対効果が悪く、結果、私の法人の助けにあまりならない」ことを身を以て知らされました。  (例、プログラマが成果物を納期以内に完成できていないな)   だから、「 (この法人が持つ)お金の使い先(縁)がすごく良くなる 」ことが必要です。  経営的には、 (十如是の一側面を強調している)ノーゲイン、ノーペインの原則 と言ってもいいでしょうか。 ④まとめ   つまり、「お金を十如是の法理」に当てはめてみますとこのような働きをしてくれます。  広布のためと目的を決めて、手段としてお金を使うと、  お金自体の境涯(価値)が変わり(如是力)、同じ金額でもより良い品や協力会

大学校への入校式

 本日男子部5期の大学校への入校式を終えてきました。 (そして、男子部4期大学校生の卒校式でもありました)。 県内すべてが一同に会合に集まる形です。 (そこに、推薦者・先輩方が集まり、合計約1000人位の参加者) ●卒業は1年後。その時、私は一体どうなっている? 多くの善知識(good friends)とどんどん縁している 同期4人とより親密になっている 自分の信仰を深める体験を多く積んでいる 自分の信仰を貫く芯を大事にして生活している 池田先生のことをより深く知っている 創価学会のことをより深く知っている 御書講義を何回も実践しました 選挙活動って何をするの?に堂々と歓喜を持って答えられます 新聞啓蒙って何をするの?に堂々と歓喜を持って答えられます 折伏って何をするの?に堂々と歓喜を持って答えられます 大事な友人と一緒にご本尊様に向かえています 人と接することが楽しくなっています(人と関わる力が自然と鍛えられている) 他人の事情をより実感として汲み取れるようになっています 性に合わない人と付き合うことで、私の眠っていた側面が刺激され発展する(やがて誰とぶつかってもびくともしなくなる強さを手に入れるサイクルに入っている) おじいちゃん、おばあちゃんの最期をみれる(如実に見れる) ●入校式って何をしてきたの? 私は席に座って聴く形。60分。 式次第は以下の流れ ①聖教新聞電子版の紹介 ②題目三唱、池田先生からのメッセージ ③卒校する人たちの代表6人がそれぞれ1年間の体験(ビフォー・アフタ) ④今年入校する人の代表1人の発表 ⑤男子部の幹部(県をまたいだトップ)の人のはなし ⑥題目三唱 ⑦(各地域ごとに)卒校正に対して送り状・品贈呈、入校生に対して品贈呈 ●入校式後ってどううごくの? 目標として、2つの動きになります。 ①自分が決めた10人と交流し、新聞啓蒙・選挙・折伏に挑戦 ②家庭訪問(地域に眠っている未活者の掘り起こし) これらを先輩に相談しながら(先輩と一緒に動きながら)1年間動きます。 ●個人的見解 これらは、昔(未活時代)は「やらされている、学会に利用されている」と感じていたことも思い出しました。しかし、今はそれは浅かったと思います。なぜか?自分がこの人と今後とも仲良くなって深く付き合っていく状態は、私にとって幸せの形だからです。 世間法(カネをかせぐ)での付

凄まじき母親

  ●概要 先日、2022年3月7日の信仰体験(4P)を読みました。以下のような内容です。 4人の男の子を育ててきた女性部長の体験談です。 長男が産まれ御本尊様の前に座るようになり、4男まで産みました。 すると夫が病で他界されてしまいます。 そこから仕事をしながら学会活動、育児に奮闘なされます。 しかしその奮闘中に「子宮けいがん」に。そこから闘病され「医師から一安心」とのお墨付きを頂きます。さらに、職場電の社員のまとめ役への昇格となり現在に至るとのことです。 該当記事 ※無料の電子版聖教新聞で閲覧可能です ●私の感想 以下の文章を目に止めました。 ①(発症時に)「私にもしものことがあったら、息子たちはどうなるの」 ②「母は太陽と池田先生はおっしゃっている。元気にならないわけがない。後遺症も絶対に残さない。主治医も驚くような最高の手術をしてもらう」 これを読んだ時、「母」という生き方の凄まじさがぐわーっと迫ってきました。 男である私にはとうてい理解しきれないものであるのかもしれない。 心が強いとかそういう次元ではなく、何かこうとてつもない生物的な強い力を感じました。 生きるチカラのえげつなさ、と表現したら良いでしょうか。そしてその一部も私が持っているということの凄さ。私はこの記事を読んだ時、本当に元気が出てきました。 そして、私の母に「ありがとう」と肩たたきをしました(母は「えっ、どしたの!?」と驚いてました)。

題目前後の変化とは!?

最近、 御本尊様に向かって題目をすると、ふと思います。私の感覚が題目中の短い時間で、変化していくなぁ、と。以下のように変化していきます。 ①題目前 :1時間もするのかー(渋々。でも決めことだし、5分でもいいや) ②題目中(悩みが隠れている時):1時間でいいのか ③題目中(悩みが顕れている時):1時間しかできないのか(まだ満足しきってない) 自身ので、題目の捉え方(深さ)が変わるということを、段階に分けて振り返りました。 そして、この感覚の変化に伴ってだんだんと自身の中からエネルギーが湧いてきます。 私の中から、何か(エネルギーと表現せざるを得ない)が、どんどん出てきます。それを1時間上げきると、「あ、エネルギー溜まってる!」と確実に感じれます。そして行動したくなる。 だから、私は、この効果を有効に活用しようとしています。歴戦の猛者(題目の鬼)ではないので、エネルギーを貯めるのにひーこら言ってますから。使い所が大事なのです。 どのシーンでこのエネルギーを使いたいか!? 一番有効に活用する場面はやはり、他者との交流時。 出てきたエネルギーを、大事な人との時間を作るために使い切ろう、と決めます。そして足りなくなったら補充(題目)。 具体的には、大事な人に会う前に題目をあげておきます。 すると、私自身の準備が整うのか、心が落ち着き、その人と関連のないことでイライラしなくなります。 きっと、声を出す、一点を見るため集中する、呼吸を浅く速く、深くゆっくりと整える。体の姿勢を正す、といった身体的な効果も得られるのでしょうか、心だけではなく、体も動くための準備が整います。 生命の汚れ(雑草取り)を取ることと表現できますが、 心身に余裕が生まれることで、無意識の行動に丁寧さが生まれます。とっさのことにも余裕のエネルギーを使うため崩れません。 だから、生命力あふれる姿で、人と出会う。自分の機嫌を自分で取ろう、と心がけております。これが、次に勝つ因を創っていると思います。 (逆に、生命力が少ない状態で人と会うと、自分のことばかりになりがち。次に負ける因を創ってしまっていると思います(その人が心の底からもう会いたくない、と思われてしまうと思いますから) 一日に、複数の人と交流する場合は、移動中に胸中題目です(カロリーメイトを食べて一時的に栄養補給するが如く)。

鎌倉時代のすてきな女性部

私が座談会で御書講義した内容です。 5分程度で終わることを目指し、大白蓮華とは異なった視点からまとめたものです。 ●私の視点 「(大聖人からお手紙を頂いた) 妙一尼(みょういちあま)という婦人部に焦点(主人公) 」をあててみました。色々調べてみますと、素敵な婦人部の方です。 私は、信心が深くて、けなげな印象を受けました。 すぐに妙一尼のイメージが整ったので、そこに合わせて学んできたことを立体的に組み合わせて講義内容を構成 しました。 ●御書講義内容 よろしくおねがいします。〇〇です。 本日御書講義にチャレンジさせていただきます。 大白蓮蓮華の46ページになります。 それではまいります。 みょういちあま ごぜん ごしょうそく。 ●ごもん 「ほけきょうを しんずるひとは ふゆのごとし。 ふゆは かならず はるとなる。 いまだ むかしより きかずみず ふゆのあきと かえれることを。 いまだ きかず ほけきょうを しんずるひとの ぼんぷとなることを。 きょうもんには 「もし ほうを きくことあらば ひとりとして じょうぶつせざることなけん」 ととかれて そうろう. ●つうかいです 法華経を信じる人は冬のようなものである。冬は必ず春となる。昔から今まで、きいたことも見たこともない。冬が秋に戻るということを。同じようにいままで聞いたことがない。法華経を信じる人が仏になれず凡夫のままでいることを。 経文にはもし法を聞くことがあれば、一人として成仏しないひとはいないと説かれています。 ●わたしの見解 さて、この後の大百蓮華とは少し違う角度からお話させてください。 このお手紙は、1275年に54歳であられた、日蓮大聖人から鎌倉在住の妙一尼に送られました。 そのお手紙の前に、妙一尼の夫は大聖人の竜の口の法難や佐渡流罪の時に、所領を没収されるなどの難を受けました。そして、夫は大聖人の佐渡流罪がご赦免になられた報を聞く前に亡くなりました。 そのため、妙一尼は、夫に先立たれ幼い病気の子を抱えて生活が苦しい状況にあったと。その中で大聖人が佐渡流罪をご赦免されて身延に戻られたことをお祝いしようと、ご供養を大聖人に送られました。衣一枚とありました。きっとお手製の衣なのでしょうか。 そして、大聖人は、この大変な状況で信心に励む妙一尼に対してこのお手紙を送られ、「厳しい冬もやがて温かな春となるように、

SNS利用と世界悉檀

  第8回本部幹部会で原田会長は、創価学会全員に対して、以下のような公式なコメントを出しました。ITに関するコメントでしたから、私目線から見た見解を投稿します。 <対象> 聖教新聞電子版より抜粋しています ※https://www.seikyoonline.com/article/369E6224D9A6F2B9FD54FA96284AE4EB ー以下、抜粋ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 現在、オンラインの普及で、情報の共有が質量共に飛躍的に向上し、それが一人一人の成長と組織の発展につながっていることは、大変に素晴らしい変化です。 ①その一方で、 転送が容易なSNSでは一度、誤った情報や不適切な情報が拡散してしまうと取り返しがつかないため、十分な注意が必要 です。   ② 特に、地区などの組織でのSNSグループは、学会活動の一環として、中心者のもと、いわば公式に設けている ものです。したがって、 そこには組織連絡やメンバー間でのやりとり、学会本部や聖教新聞社などから公式に発信されたもの以外の情報や、人づての情報は、流さないようにしていきたい 。   ③そもそも ネット上にあふれる情報には、真偽や是非の検証ができないものも多く、中には学会利用や学会破壊をたくらむ人物が、その本性を隠して、学会員の関心を引こうと発信しているケースも、まま見受けられます。 「魔の働きは分断」と心して、団結固く、学会と広布の前進を守っていきたいと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー <私の意見> ①について、 おっしゃるとおり。 そのような特性があります。 取り返しがつかない、とは削除・訂正しきれない、 ということでしょう(ブロックチェーン技術による不特定者の複数承認システムの根幹でもある”削除しきれない”)。 十分な注意とありますように、禁止ではなく創価学会全員へこのような特性を配慮ください、とおっしゃっている。 そもそも表現の自由が権利としてありますから、各自の権利である発信自体を禁止することはできないため、このような発言に留められておられる。 ②について、 現在、使用用途が不明のSNSグループが散財している状況を憂慮されておられる。 SNSグループへ招待された後「このSNSグループってなんのため

グチは心を破るとは?!

愚痴を言うと、自身の心を破ってしまう。 私は、創価学会の活動中にこの内容を聞きました。 これってどういうことでしょうか? まず、愚痴を言っているわけですから、 愚痴を傾聴できる方と出会いその人に愚痴を話している 、ということになります。 そして、愚痴を言うということは、自身の内面を発散する行動の一つになりえます。 確かに、自分の内面を他の人に知ってもらえていると実感できると、自分自身に価値を感じます。そして、価値を感じると元気になり(生命力が湧いてきて)、行動を起こせるようになる余裕にも繋がります。 しかし、それって、その根本となる課題(原因)に向かえているのでしょうか? 単に一時的に発散行動によりスッキリしてしまって、 今は考えなくて良くなった、 のではないでしょうか?(仮に別の発散行動である昇華(スポーツ)をしても同じような状態になるのではないでしょうか?) でも、再びその愚痴を発生する環境(人や場所)縁すると、同じように不快を感じ、その愚痴がまた発生したりしませんか? ならば、また傾聴してもらってスッキリして、それを繰り返せばいいじゃないか、とこうなります。 ところが、これは繰り返せません。なぜでしょうか? それは、 傾聴している人が同様の内容を聴くことができなくなる からです。そして優しい人であればあるほど、傾聴力が高いと思われますが、すっとその愚痴を言う人から離れていってしまう。優しい人ほど、それとなく、離れたことがわからない程度に少しずつ距離を置いて疎遠となる。 そうなれば、きっと愚痴を吐き出すための新しい人(次の傾聴してくれそうな人)を探す行動をしがちです。 つまり、愚痴に対して抜本的な行動は 傾聴できる方を探すではない のです。 理屈(因果の法則)では、 愚痴は、生み出している自身の内面(因)とその愚痴を生み出すきっかけである環境(縁)が組み合わさって発生する。 だから、愚痴を生み出さないようにするには(理屈の上では) ①生み出している自身が変わる(原因の変化) ②生み出しているきっかけに触れなくなる(縁の変化) です。 でも、実際問題、①を変えることって大変ですよね(頭では分かっていても、不快!と感じてしまう無意識があるので、意識で変えようにも、どうしたものか、と。) この大変さをすごーく簡単にしてくださる手段があります。 それが、御本尊様に「決め

私の功徳体験3

  ①事象 私の小学生時代。 私は喘息に患っておりました。 すぐに呼吸が苦しくなり、気管支炎用の対策(のどに直接薬をあてる)が無いと、生活できませんでした。 喘息を発症するタイミングは不明で、一度発症すると長時間動けなくなります。 その間、周囲の目にもさらされます。また、薬を取り出す必要があるのですが、その薬をとる行動を酸素不足でとれない。 そして声をあげて「薬をだしてください」と助けを求めることもできないのです(呼吸ができないので)。 そのため、私の症状に理解のある方の支援が必要でしたので、私は、移動に制限がかかっていたも同然でした。 これに対して、母は「私の喘息の治療」を目標として、かなりの時間、題目を唱え続けていました。 それから数日してからのことです。 なぜか、私が全く喘息を起こさなくなったのです。場所(すみか、学校)を変えて空気の良いところへ引っ越したわけではないのに、です。 一応、私は喘息の対策薬を持ち歩いて万が一に備えていました。しかし、結局、この投稿をしている今の今までその対策薬を全く使用していないです(持ち歩いてもいないです)。 それどころか、水泳(呼吸が荒くなる行動)もできるようになっていました。 ②私の主観 母の題目のおかげです。小学校時代に苦しむ姿を人に見せ続けることなく、周りと同じように水泳を楽しむこともできた。 ご本尊さま、ありがとうございます。呼吸ができること(呼吸していると苦しくないこと、当たり前ではないことを実感しています。ありがたいことです) ③他者からの主観 母は呼吸器系はもともと私も弱かった。だから子も起きるのではないかと思っていた。私は題目で乗り切ったから、子も必ず乗り越えれる。と。 母には頭が上がりません。ありがとうございます! 以上

私の功徳体験2

①事象 私が中学生の頃の話です。 私が学校内で遊んでいた時、扉を開けようとしました。 すると、開けようと思った扉のガラス部分に手をかざしたところ、 私の腕が扉のガラスを突き破った のです。 すぐに先生方が動いてくださり、医師の元へ搬送されました。 医師が「手首の怪我」ということで、優先して診断してくれたそうです。 しかし傷を見た医師は驚きました。 出血がほとんどない。 通常、手首の怪我は動脈が集まっており出血すると、危険だそうです。 なぜ出血が少なかったのか?医師は傷を観察しました。 すると「 ガラスの傷がなぜか動脈部分を避けている 」と。 ちなみに縫合はすんなり終わりました。 ②私の主観 私の手首には今もその傷跡がありますが、 たしかに血管を避けている傷跡 があります。 中学生の頃、私自身は題目を意味がわからないながらも少しだけあげていました。 また、母はスキマ時間をつくって題目をし続けていたことを思い出します。 私は今でも手首の傷跡をみると「不思議だ、本当に血管を避けて傷ができている。母の題目に護られたのだな」と思っています。 後遺症もありません。 ありがたいことです(今こうしてキーボードをその手で打てるのですから)。 ③他者からの主観 母からは「きっと過去に行った宿業を軽く受けた」んだよ。と。 転重軽受の法理というものがありますが、それなのではないかと言っておりました。 以上

私の功徳体験1

  ①事象 私の生誕時のタイミングです。 私が母のお腹にいる間、 母は医師から 「赤子の私が逆子×へその緒が首にしまっている危険な状態である」 と言われたそうです。 通常の出産では首がしまってしまう。なので「帝王切開」しかないが、母体に負担がかかる。 父と母に「母をとるか、子供をとるか」を選択ください と言われたそうです。 しかし 母は懸命に題目をあげ、通常の出産を選択 しました。 そして、母は私を産み 母体も健康でありました (妹、弟も別の年に無事出産している)。 また、 私の首には、医師診断時にたしかにへその緒が巻き付いていたそですが、実出産時には通常の長さの3倍以上になっていた、 とのことです。 その長さ故に隙間を生む余地があり、結果として実出産時には、へその緒の巻きつきが、「首と脇」になっていて呼吸ができる状態になっていたとのこと(「首のみ」ではない)。 そのため、通常の出産でも「私は首が締め付けられずに」生まれることができ、帝王出産ではないので、母体も護られたという体験談です。 ②私の主観 私は産まれて間もないことであり覚えていません。そのため主観はありません。 ③他者からの主観 母はその長いへその緒を大事に持っています。見せてもらいましたが、確かに、すごく長いです。母は、題目による功徳だ、護られた、と言っておりました。 以上

訓練された人ってどう見える?!

本日19時より、創価学会会館にて「第二回青年本部幹部会」という上映会がありました。私は、活動家である男子部の方に連れ出し(送り迎え)をしていただけました。ありがたいことに(いつもは徒歩なのです)。 すると会場には男子部約30名が集まっていました。 今回参加した後に思ったことは、 活動している方々ってすごいな !と実感しました。私が気づいた範囲でお伝えします。 ①連れ出しをするために、各自の家に車を運転して一人一人乗せ、送り迎えを行っていました。 連れ出しは、会合に集まるために有志で行っています。しかしこ の連れ出しには凄さがあります。それは、以下のようなことを自然と行えている点 です。 (A)会合開始時刻に間に合うよう訪れる家庭のルートを頭でさっと計算できる。 (B)軽自動車(小回りのきく車)を円滑に運転でき、訪問を行う人の家の駐車場などを把握する。 (C)(車内には「初めて顔を合わせる人」であふれかえる状態となることもありますので) 運転しながら車内の雰囲気を盛り上げる役を行う 。 (D)搭乗者の会合へ到着時のテンションを少しでもあげようと、 搭乗者とのコネタの準備を怠っていない 。 ②会合自体の準備 オンラインでの接続、会合終了時点のオンラインでのご挨拶を配慮しています。 清掃、椅子の整理。 スクリプトの作成。 式次第の調整と登壇者の手配や調整。 これらの行動を仕事後の休日を使って行っている。 また、不参加だった人への配慮や会合での写真撮影とともに池田先生へ報告 つまり、 多くのタスク、多くの人を配慮しながら、交流する場を創り出しています 。 超裏方。そして超最前線。一人何役もこなせるのです。 参加者はこの交流できる場の上で、無理強いなく他の学会員と交流を楽しめるのです。 鍛えられた男子部の精鋭とは、、とんでもない集団です。

男子部大学校の面談って何したの!?

 男子部大学校への入学前の面談を行ってきました。その時の状況を投稿します。創価学会の男子部の面談って何をするの!?と思われている方へ届きますよう。 ●面談時のシチュエーション 少しでもイメージできましたら幸いです。 場所は、最寄りの創価学会の会館です。 面談は3人(私、面談者、推薦者T)。 10平方メートルくらいの部屋に私服姿で入室。合計30分位実施。 ●面談内容 まず、題目3唱(面談者が導師、3人で呼吸を合わせられるかを確認されたと思われる) ※題目って、その人の生命状態がモロに包み隠さずでますからね 次に面談者から「人となり」を知りたいということで、いろんなことをお聞きされ、私がそれを答える形から始まりました。 ※活動をしていく中で、配慮が必要となる点が多くあるからです。 ①生年月日 ②家族構成(入会状況、現在の住まい(1戸建?マンション?) ③入信日(私の場合は、生まれた月から1ヶ月以内) ④誰から折伏されたか(私の場合は、母) ⑤学校卒業後から、現在までの生い立ち  (私の場合は、10年間システムエンジニア→創業→マーケティング→自営業) ⑥大学校への入学を決意した内容(私の場合は、魅力的になり助けたい人がいる、だからもう一度社会人として学会員として訓練し直したい) ⑦大学校についてどのような認識をお持ちか? (私の見解は、「男として、社会人として基本的な習慣を身に着け、社会で活躍するための基礎づくりを行える場。そして、多くの職種や事情の方とリアルにであい縁をどんどん広げることができる場」と回答しました。同じ認識であったようです。) ⑧どのような活動をするときいているか? 主に今年は以下の活動を目標としてチャレンジしていく(F取り、折伏、新聞啓蒙、御書講義、生活リズムの習慣化)。そして、基本的な習慣を見に付けていく。 次に私からの質問タイムでした ①学会と足並みを揃えて活動をしてきたわけではないので、時期に合わせて舟を漕いでいくことがわからない(だから、過去、学会が行ったが現在はしてはならなくなった行動なども分かっていない) →これは、どういう行動をしていくかを推薦者などに相談していきましょう、とご回答いただきました。 ②私は我流で信心をしていた期間が長いので、思い込んでいる事が多い(気づく機会が得られたら嬉しい) 最後に3人で題目三唱。 以上 P.S. 面

魔を乗り越えるって?

  ●座談会前日のこと 先日、座談会へ御書講義のために参加しました。 初めての御書講義(私から志願しました)です。 一生成仏抄というお手紙に対して、大白蓮華という教材を見ながら、話をします。 話す相手は、歴戦の創価学会員です。 講義などおこがましいです。身で読まれている方が相手なのですから、中途ハンバなことはすぐに見破られます(見破られても、否定や批判にはなりませんが 、周囲の目は生温かくなります ) 少し考えた末、「私の見解を述べながら、日蓮大聖人がいわんとされていること(お手紙の意図)」へつながるストーリーに軸を置くことにしました。 (私の見解=点、日蓮大聖人の意図=点。その点について話すのではなく、点と点をつなぐ今の私の 境涯そのままの線 をきいてもらいたい、と。点自体のレベルが低いのはしかたなく精進しますが、 私のありのまま向かう方向がずれていないか、を確認いただきたかった のです) ●座談会当日 元気いっぱいに参加しました。LINEグループをオンにし準備万端。ふと思いました。「あれ、魔がこないな、きてないな」と。 普段していない学会活動を始めると、多くの場合、その学会活動中に「魔の働き」が起きることを体で知っています。でも、今回の場合はその魔の働きが出てきません。 あれ、、と。 そして、座談会開始。私の御書講義開始は20分後でしたが、その20分間でいきなり以下の症状に見舞われました 「頭が重い」「人の言葉が入ってこない」「LINE上でみる学会員の顔をみるとムカムカする」「逃げ出したくなる」 すぐに思いました。「 これは魔の働きだ! 」と。即座に胸中で題目。座談会のリーダーや他の人の一言に対しての余裕などありません。 そして、私の出番。なんとか御書講義(5分間)を乗り越えました(スクリプトを創っておいてよかった)。 驚いたのはその後のことです。御書講義後、私の症状は一変し、以下のような状態になりました。 「頭がすごくすっきり」「(誰に褒められるでもないのに)凄まじい達成感による快感情」 いわゆる生命力あふれる状態になった のです。 座談会は、すごいです。内容がどうこうより、その参加者がすごい。生命力に溢れている。 ありがたいことです!

壁の秘密

  素敵な名言です。 現在の悩みを受け止めれる力になりますね。 悩みは心が大きく強く成長している証拠。 ご参考に、希望対話の一節から 「新しい環境(未知)にはだれもが不安になりますが、不安になるのが当然なのです。 不安があることがいけないのじゃない、不安に心が負けてしまうことがいけない。 できることから始めることです。そして、自分はこれが得意だというものをまず一つつくってください。自分はやればできるんだという自信が頭がよくなる最高の薬になります。 なにか一つのことをやりとげられたら他のことも自然と応用できるようになります」 中学生、高校生に向けられた励まし。 一度、現状を受け止め、そこから一歩を踏み出してもらいたいという気持ちを強く感じます。ありがたい書籍です。ありがたい先生です。 このように励ましてもらえる環境って、社会に出るとなかなか出会えないような気がします。社会に出ると池田先生の凄さや温かさを肌に感じます。

ご本尊授与式①の続き

(本尊流布へお誘いを受けた)Tさんから以下の連絡をもらいました。 「 御本尊授与式ですが、人数制限がかかり、参加が難しくなりました 」 すぐに「わかりました、連絡ありがとうございます」と返答。 その後、 題目をあげながら、この件について自問自答しました 。 ①ご本尊流布ってあらためて思うと、私はどう捉えているのか? その方で一生に一度あるか、ないかの儀式と捉えています。 きっと、そのご本尊流布される方は、創価学会という知らない世界に飛び込み、生き方を変えて幸せになろうと決意されたのでしょう。 そして、その決意に対して、創価学会の先輩たちが敬意を示す場なのだろう。きっと、座談会などの集まりのように笑顔で明るく温かい空気に包まれるのだろうと思います。 ②私はこの「参加表明したが、参加できなくなった」ことに対してどう捉えているか? 参加できなくなったことに残念です。 そして、自分自身の題目の少なさをなぜか実感しています。 なぜなら、私はどうやら(知的好奇心を満たすというような)物見遊山的な軽い気持ちで参加表明をしていたようです。本尊流布のことを軽く(言い換えると、当たり前)のように捉えている自分がいる。福子として生まれたときからご本尊がある生活であるので、あることが当たり前なのだと。 話によると、御本尊流布を決めてから、実際に授与するまでの間、「多くの葛藤や難」が襲い来ると。それも「授与を促した側(折伏した人)」および「授与される側(折伏された人)」の両方で起きる、と。現場を見たことがないが、先輩方がそのようにおっしゃっていた。授与を邪魔する働きが発生するのだと。 その邪魔する働きを抑え込んだり、減らしたり、避けたりするため、このご本尊流布の話をきいた創価学会の先輩方は題目をあげる、と(過去、自身が通った道なんだとおもいます) 私はその経験がないのです。だから、物見遊山と表現しました。そして、題目が足りていない(きちっと祈っていない)ことに気づいたのです。 私は私のことをする。 しかし、このような機会に縁できたことは、私にとって進歩です

人のため、社会のためって何?

「人のため、社会のために」というフレーズを目の当たりにします。 「人のため、社会のため」と言いましても、と感じることがありました。 どういうことなのでしょうか? 掘り下げてみましょう。まず、以下のケースを4つに分けれます。 (A)「多くの人」が持つ「深い」悩み を対象として解決する行為 (B)「多くの人」が持つ「浅い」悩み を対象として解決する行為 (C)「少数の人」が持つ「深い」悩み を対象として解決する行為 (D)「少数の人」が持つ「浅い」悩み を対象として解決する行為 (多くの少数のはその悩みを抱えている人が多い環境なのかどうか、 その悩み自体の優先度(緊急性×重要性)の高さで表現) では、 悩みを対象として解決 するって? その 悩みを生み出している欲求(心的な面 OR 体的な面)を対象として、 (1)ゼロからプラス (   0→1) (2)マイナスからゼロ(-1→0  ) に変化すること だと思います。(1)(2)ともにプラス方向に進んでいますが、悩みとしての深さは(2)が深いです。 キーワードは解決は変化の一種だということ、そして深さが違うということ。 困っていることが困らなくなる((2)のケース)方が、特段困っていないことがより便利になる((1)のケース)より解決したい。人間はそのようにできています。 ですから、ご本尊に向かって祈っていると宿業(過去にマイナスとなってしまった悩み)が顕在化してくる。(2)のケースに該当するので、本気になれるのです。 そして、変わる。それも自身の想定していた値より多く。 いいかえると、 御本尊に「悩みをぶちまけながら、どうなりたいか!のイメージを決めて、祈りまくって、(祈り中にでてきた具体的な行動計画を)行動する」と (3)マイナスからプラス(-1→0→1  ) へと変化する それをこのブログで、私の実体験の内容で、擬似的に体験いただけたら私は嬉しいです。

息を吐ききったら?

通常、息を吐いている最中の人に対して、なんらかの「香りや栄養」を吸わせることはできません。 しかし、息を吐き続けることはできません。息継ぎをします。 そして、息を吐いている最中は相手は快の状態にあります。 さて、 その吐いている息とは、その人の「今の悩み(愚痴)」であるとします。 愚痴を人に傾聴してもらうことは、快ですよね。なぜか? ①その傾聴している姿勢自体が、「私自身を大事におもってくれている」から ②愚痴を吐き出すことで「一時的ではあるが」溜まった愚痴を忘れることができるから この快の理由の②が、やっかいな点です。その愚痴を吐き出す本人にとって。 なぜなら、愚痴を生み出している根本原因が、傾聴相手に「コトバ」として吐き出されないからです。 傾聴相手が未熟であると「表面化している愚痴を対象として」助言なりの行動をとってしまう。でも、 「愚痴を生み出している根本」を対象としていないので、後日、同様の愚痴を生み出してしまう無限ループに陥りかねない です。 大事なポイントは、「(息を吐き出し続けることができないように)今の心の中の愚痴を一旦吐き出して貰うまで傾聴する」に加えて「でてきた愚痴を生み出している、その人が捉えているであろう環境を会話の対象として想像すること」です。事情を察するともいいます。 その事情。その人でないと本当のところはわかりませんから、理屈では(その人ではないので)他の人はわからない。だから、 想像力で自分の過去の体験を材料にしながら、補う 。 想像できた人間のみが、その方に必要となるアドバイスができるのです。 ですから、過去題目により乗り越えたことのある経験者が、今、同様の経験をしている相手に刺さる、のです。 人の縁って素敵ですね。そして、すごいですね! 創価学会の集まりの凄さは、この「傾聴」が多く行われている場を目撃できることです。傾聴してきてもらっている人が多いから、「今」傾聴(他者の事情をおもんばかる)できるのでしょう 。 私も傾聴を訓練しています。 以上

ご本尊授与式①

 大学校への面談日に、 同日同場所で壮年部の方のご本尊流布が行われる とのことです。 参加してみますか?と誘われたので、即座に「はい」と回答しました。 私は福子であるため、特段意識せず母から障壁なくもらったので、そのような福子でない方へのご本尊流布はどういう場や流れになるのか、知りません。その知らないことを埋めるチャンスです。 珍しいタイミングなので、時と場所がぴったり合う。うーん、不思議です。 追って内容を記録していこうと思います。

私たちがもつ財産は三種類に分けられる?!

創価学会では「日蓮大聖人御書全集」という本を教材としています。 この本には、 鎌倉時代の日蓮大聖人という方が当時のお弟子さんたちに対して送った手紙が閉じられています。 今回は、その手紙の中の一節(以下)を範囲として、見解を述べます ●対象とする文言 『蔵の財(たから)よりも身の財(たから)すぐれたり。身の財(たから)より心の財(たから)第一なり』 (日蓮大聖人御書全集 新版の1596ページより抜粋) ※日蓮大聖人から崇峻天皇に向けたお手紙の一節だそうです。 ●私の見解 財産は大事。これは納得いただけることだと思いますが、では、 大事ってどういうことなのでしょうか? 私は、 ①得がたいもの(希少性)があること。 ②失うと手に入らない ③人を幸せにするもの(自己、他者それぞれに笑顔が生まれるもの) という3軸、「大事さ」が決まると思っています。 ●3種の財とは? 上記、対象とする文言と、私なりの軸とをかけ合わせて、解釈しました。 蔵のたから =物質的なモノを所有している状態のこと。他の人に「所有権を明け渡すこと」ができるもの 身のたから =健康、技能。他の人に「所有権を直接渡すことができない」。蔵のたからを手に入れるための手段。 心のたから =人との間に繋がれた信用。身のたからを手に入れるための活力そのもの。 ●財産を持つ、ということをもう少し掘り下げると 蔵のたからを求めると、  売上第一、利益第一となる判断や行動を伴う。人から奪っても良い。自分に「所有権があること」が第一。 身のたからを求めると、  技能第一、健康第一となる判断や行動を伴う。人から奪っても得られない。自分が「(他者と比べて)どちらが上か」だ第一。 心のたからを求めると、 他者からの信用を蓄積することを第一として、判断や行動を行う。信用を得る手段として、助けることができる技能や蔵として現れている。 心のたからが基盤にあり、その上に身のたからと蔵のたからがる。 新たな疑問も生まれます。 では、心のたからを増やしていける行動とはなにか? これは、今後私が活動していく中で、頭ではなく実践した結果でお伝えできる日がくるとおもいます。

男子部大学校って何?

3/5のこと 男子部Sさんと食事をしました。私の体調を考慮してくださっていて様子をみてくださったようです。 基本的には雑談です。 雑談が上手い人で時間がすぐにたちました。 笑顔いっぱいで前向きな人だなと思います(過去この方も色々な障害を乗り越えてこられた、強い人)。 ①お誘い 話が進む中(※1)、私は「私自身のこういう内面が原因で、こういう苦しみを作り出してしまい理性では分かっているがどうしようもない状況」であることを自分なりに伝えました。 そして、 「男子部としての大学校」という自身をいろんな角度から鍛え直す場 があることを教えてくださった。 ②入学届けの提出  3/6のこと。 男子部の方2人(Sさん、Tさん)が自宅へ訪問くださった。 ふたりとも過去、男子部としての大学校を1年間実施され、卒業された経験を持っておられた。 な(コロナ禍でやり方が変わったらしいですが)当時の男子部大学校時代の活動内容や入学きっかけ、そしてその中で得たものを詳しく伝えてくださった。辛かったことも楽しかったことも。 社会にでて「もう一度学びなおしたい」人のチャンスタイムとして捉えています。 以前より親交のある方2人であり、素直に話をきけました。 コトバを前向きに選びながら率直な物言いができるTさん。 物事を軽くできる視野を持つSさん。 私は、この二人の過去の行動を知っています。口先だけではないことを知っています。 そのため決意しました。 本日は「大学校への入会届」に記入し提出しました。 ※記入した内容は「①私の部署、②私の本名、③推薦者の本名(Tさん)のみ、でした。 ③今後の動き 3/13に創価学会の地域にある建物(会館)へ私と推薦者Tさんの二人で出向き、大学校を管轄されている方(総県男子部長のYさんとYGさん)との面談予定です。 その面接後に入校式(3/20)が行われます。スーツ姿で参加予定です。 ④目的 大学校への入学目的は、以下としています。 (A)信心を始めて御本尊様を流布頂いた後に、具体的にどういう行動(習慣)をして、幸せを創っていくのかを知りたい (B)信心を初めた方はどのように変わっていくのか、を実際にリアルに体験したい(酸いも甘いも含めて実際のところを知りたい) 私のエリアでの今年の大学校生への挑戦は4人(私を含む)だそうで、これからお会いすることになります。 Tさん曰く

お題目をあげるとどうなるのですか?

この問いに対して 、以下の資料を閲覧しました。 池田先生は、上記のように2009年に学園生に対してお答えされたそうです。 本当かな?とかどういうこと?と思われるでしょう。 私もそう思います。ですから、できそうな1時間を試してみました。 題目を1時間してきました。 その後に思い起こすと以下のような変化が見られました。 すると、 20分後、グチグチ言っていた自分もネタが切れました。 40分後、気持ちが楽になりました。 60分後、何かをしたくなりました(行動したくなりました)。 (実は、以前からこのような創価学会の活動に関するブログを開設して、発信してもよいのかどうか?とか、続かないかな、と思っていた自分がいました。しかし、現在に至っていますが、 ブログ開設からこの投稿まで1時間題目を上げた後に、一気に設定し投稿までできている自分に驚き です) この投稿ができていることが、自分が変わった実証の一つといきなり言えます。 池田先生がおっしゃっている「先のこと(100万遍以降)」は現時点の私には実感できません。ですから、皆さんにも「そのとおりだ!」とは言えません。 <なので> 試していきます。 この ブログで現時点の題目数を記録しながら投稿をしてみよう と考えました。その行った題目数によって、きっと投稿内容も変わっていくのだと思うからです。題目をあげることは、時間を費やすことでもあります。ブログ閲覧者の時間を大事に思うため、その費やした時間に対してどのような結果があるのか? (私であれば、題目を上げきる前にざっくりとした結果を知りたいと思うからです。少し理系の考え方が入っていると思いますが) 本当に、私が変わっていっていることかどうかは、私の周りの環境(ブログ読者)にて判断いただく視点もあると思います。 私は現時点のありのままで投稿することを目指していきます。ですので、ブログ閲覧者の現時点の感覚で判断ください。そして、結果として、もし元気が少しでも出ましたら、私は嬉しいです。 現在の合計題目数:80万遍完了

創価学会って何してるの?!

このブログの目的を以下に記載しています。 まず前提として私は学会活動をやり直しています。 その結果、私自身の考え方や環境がどんどん良い方向へと変わっています。 その事実を記録していき、 同じような事情をお持ちの方を元気づけることができたら と思ったからです。 私は、創価学会の活動に対して、過去に未活動時代(10代、20代)、退転時代(30代)の経歴を持ちます。とくに退転時代はひどいものでした。 だから 未活中の人 、もしくは 一度何らかの納得できないポイントを消化できず不信(軽い退転) に陥っている人 。 私の場合に置き換えてその状態の人目線で、知りたいと思われることも、学会活動を私がする中で見つけてこようと思います。 そこからの 題目を軸とした立ち上がり も投稿していきます。 また、(創価学会の名噂は聞くけど(だから今ネットで調べているけど))、 よく実態がわからない ので飛び込めない。という人もいらっしゃると思っています(別に創価学会だからではなく未知の世界って飛び込む前に様子知りたいのが人情です)。 私が進めていく、私目線での学会とは、にも切り込んでいきます。