大白蓮華の48ページを開いてください。 今月の拝読御書は、開目抄(かいもくしょう)です。 〇〇が御書講義にチャレンジさせていただきます。 御文(おふみ)です。 われ、ならびに わがでし、しょなん ありとも、 うたがうこころ なくば、 じねんに ぶっかいに いたるべし。 てんのかご なきことを うたがわざれ。 げんぜの あんのん ならざることを なげかざれ。 わがでしに ちょうせき おしえしかども、 うたがいを おこして みな すてけん。 つたなきものの ならいは、やくそくせしことを、まことのときは、わするるなるべし。 ●通解(つうかい)です わたし、ならびに わたしのでしは、しょなんがあっても、うたがうこころが なければ、しぜんに ぶっかいに いたることができる。 しょてんの かごが ないからといって、うたがってはいけない。 げんぜが あんのんでないことを なげいてはいけない。 わたしのでしに あさゆう、このことを おしえてきたけれども、うたがいを おこして みな、しんじんを すててしまったようである。 つたないものの しゅうせいとして、やくそくしたことを、いざというときには、わすれてしまうものである。 ●このおふみは、開目抄の一節です。 開目抄は、日蓮大聖人が佐渡流罪中の1272年2月、51歳の時にご執筆された書です。 四条金吾に託され、すべての弟子に対して送られました。 大聖人は竜の口の法難を乗り越えられ、ほっしゃくけんぽん、つまり仏として覚醒されます。 そして、御書末尾の年表上でみると、この開目抄は仏として弟子たちに向かって執筆されたはじめの書といえます。 では、仏になられた後、はじめに何を弟子たちにお伝えなさろうとされたのでしょうか。 お伝えなさろうとしたことを開目抄から拾ってみます。 まず、開目抄では、一言で言いますと「日蓮大聖人こそが末法の御本仏である、いいかえますと日蓮大聖人が人本尊である、ことを明らかにした」書です。 本尊とは、あらゆる人が尊敬すべきものという意味。 ですので、にんほんぞんとは、尊敬すべき人。 つまり、単に崇拝したり利益を施したりしてくれる人、だけではなく、自身も獲得・達成すべき智慧や慈悲などの人格的な価値を実際に体現している目標となる人ともいえます。 目を開いて大聖人を見ろ、大聖人の行動を自分自身の目標にして、智慧や慈悲などの人格的...