通常、息を吐いている最中の人に対して、なんらかの「香りや栄養」を吸わせることはできません。
しかし、息を吐き続けることはできません。息継ぎをします。
そして、息を吐いている最中は相手は快の状態にあります。
さて、
その吐いている息とは、その人の「今の悩み(愚痴)」であるとします。
愚痴を人に傾聴してもらうことは、快ですよね。なぜか?
①その傾聴している姿勢自体が、「私自身を大事におもってくれている」から
②愚痴を吐き出すことで「一時的ではあるが」溜まった愚痴を忘れることができるから
この快の理由の②が、やっかいな点です。その愚痴を吐き出す本人にとって。
なぜなら、愚痴を生み出している根本原因が、傾聴相手に「コトバ」として吐き出されないからです。
傾聴相手が未熟であると「表面化している愚痴を対象として」助言なりの行動をとってしまう。でも、「愚痴を生み出している根本」を対象としていないので、後日、同様の愚痴を生み出してしまう無限ループに陥りかねないです。
大事なポイントは、「(息を吐き出し続けることができないように)今の心の中の愚痴を一旦吐き出して貰うまで傾聴する」に加えて「でてきた愚痴を生み出している、その人が捉えているであろう環境を会話の対象として想像すること」です。事情を察するともいいます。
その事情。その人でないと本当のところはわかりませんから、理屈では(その人ではないので)他の人はわからない。だから、想像力で自分の過去の体験を材料にしながら、補う。
想像できた人間のみが、その方に必要となるアドバイスができるのです。
ですから、過去題目により乗り越えたことのある経験者が、今、同様の経験をしている相手に刺さる、のです。
人の縁って素敵ですね。そして、すごいですね!
創価学会の集まりの凄さは、この「傾聴」が多く行われている場を目撃できることです。傾聴してきてもらっている人が多いから、「今」傾聴(他者の事情をおもんばかる)できるのでしょう。
私も傾聴を訓練しています。
以上