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子育て経験者の母が奥さんを褒める

母の息子の子ども(孫)が誕生しました。 その息子の奥さんの二女にあたります。 母は奥さんの「長女への行動」を褒めました。 (その褒めた内容は奥さんには直接言わず、私に言いました。私はさりげなく伝えられる機会が持てればその奥さんに伝えようとおもっています) その奥さんは「空間づくり」をしたからです。 どういうことでしょうか? それは、 「奥さんから二女が見えていて」、「長女から二女が触れられる」空間。 長女は3歳です。 しかし、長女に「幼児だから触らないで」とは言いません。 代わりに長女の近くに奥さんがいながら、長女に次女を触れる「体験」 をさせています。どうやって「自分より弱い力を持つ存在」と「仲良く慣れればいいのか」を体験させようともしています。 長女は「次女がいるから、私が邪険にされているー」という気持ちを持たせないように配慮しています。 ただ、(長女から)次女を遠ざけるのではなく、どうやって触れるのかという「長女と一緒になって、次女を育てる」空間を構築しようとしています。 母は言いました。 「〇〇さん(奥さんの名)は、賢い人」 そういう目線で見れて、そういう行動を取れる母にも奥さんにも脱帽です。 (むしろ奥さんの夫(=私の弟)のほうが。。。夫はその女性だらけの空間に入っていけるのでしょうか笑)

指導力とは

1.結論 大白蓮華(2014年10月)よりの抜粋です。   指導力とは 「題目を唱えることです。 御本尊に 責任を全うしたい、幸福になってもらいたい、と願っている。 それが指導力です。 才覚や策や政治性を指導力というのではありません。」 2.所感 策や要領や効率という「題目をせず、頭で考えたこと」はどうしても、「自身の偏見や執着、境涯をベースとして、自身が無意識レベルで”選択”していることとなる」。 つまり、相手のことを、そもそも鍛錬中の未熟な鏡で見てしまっているから、どうしても凡夫なので、認知のゆがみや狭い知識からの判断が起きる。 御本尊が、ご用意くださった、その人とともに自分自身も成長をさせていただけるチャンスを、スルーしている、とも言えます。 私も肝に命じる。 「その人の幸せと成長を祈る」 「(祈ってでてきたご仏智(= 随縁真如の智)が具体的な行動をお示しになるから)その行動を行う」

消えない苦しみ、消える苦しみ

この信仰をしていて良かったと思えること。 それは、 『何か自分の身におきた時に、どうそれを受け取り、どう行動していったらいいのか』といった、(何か起きた後にも)次のステップに、生命状態をうつすことができる ただ悲観するだけの時間を少なくできる。 確かに、悩みに対してどうしていいかわからないけれども、そのうち、 「何かが起きても、もっともっと自分の中にある力を信じれるようになってくる。私の出せる力はまだまだこんなもんじゃない。必ず私は現状を変えることができるはずなんだ、と」思えるようになる。 ふと思います。 もしかしたら、私は「南無妙法蓮華経と唱え、活動をすることで」 私が私自身の中から湧き出てくる力を、完全に確信できるようになるために、自らが環境をぐらつかせているんじゃないかと。 環境(縁)を自ら動かしていて、もともと持っている生命の中の磁石(悪業からの作用)を表面にだしている。 なぜか? それを乗り越え、環境にぐらつかなくなる心を定まらせるために。 命を鍛え続けて、生命を反映する鏡(心)をより強くキレイに磨こうとしていると。 もちろん、こんなことは誰にもわからない。 人の命(一念)には、必ず自分を引っ張る(磁石のような)「苦しみの元」を必ず携えている、といいますが、今苦しんでいる悩みは、次のどちらなのか? ①私の命の中にある、消えない業が、その時々の変化(環境)に引っ張られて、単純にでてきたケース ②私の命の中にある、消えない業が、妙法に縁して、消すために呼ばれて出てきたケース(転受軽重) 凡人だから、どちらなのか分からないところではあります。 今、目の前にあがってきているその苦しみは、表面上同じような悩みにみえるが、決して同じ結果や報にはならない、ということはわかります。 後から振り返ると。なぜなら、「同じような環境でも、同じように苦しまなくなっているから」。その自分が弱かった環境に対して、無効耐性がいつのまにかついているような。 でてきては祈り、でてきたは祈り。必死にやる。 これ以上はできない、でも、そんな自分を、容赦なく超えてくる苦しみ。 「消えない苦しみ」と「消そうとする行動」を繰り返していく。汚れがどんどんでてくる鏡を磨き続けるようにこすりまくっている。 すると後から振り返ると、その過程を確実に前に進んでいる自分が居て、そして、いつのまにか、想像していた...

池田先生が称えられること

 ●一言で結論 世間から称えられることが嬉しい理由は、 「池田先生を称えるに値する行動と成果を蓄積していることで、その地域の「今後の人(未活者、未信心者)」の後押しとなるため」 ●詳細 池田先生が、世間(海外)から称えられること。 うれしい。 どうして嬉しいのでしょうか? (人それぞれではあると思いますが私は)自分が大事にしている人が、世間から認められる。ということもあります。 わたしが好きな、尊敬している先生(多くのことを学び、多くのことを指摘くださり、善の方向へ導いてくださる、温かく厳しいお人)が、笑っておられる姿をイメージでき、私もほっこりするのです。 しかし、 私は、さらに以下のことも嬉しいのです。 ①池田先生が代表 その地域やその業界の人が、「池田先生を称えるに値する行動と成果を蓄積している」ことの証であるから。 その地域や業界の代表という意味で、”池田先生”という1つの形に対して、「その地域やその業界の人」を称えている結果なんだとおもいます。先生の書籍や活躍をお伝えした人もその称えられている一人です。 ②めぐりめぐって 池田先生を称えることで、その地域の「今後の人(未活者、未信心者)」の後押し(援護射撃)となるから。 よりよい「環境(条件)で活動のスタートをきれる」。 これは、「先輩たち活動者が乗り越えてきたおかげ」です。 「同じ苦労をその後輩がしなくてすんでいる」ということに他ならないです。 これが、「国土世間の境涯向上」の道理なんだとおもいます。 「五陰世間、衆生世間、国土世間」が境涯を顕す場。それらの総量で、人の幸せの総量が変わる。死して、その人の功徳が「国土に残っている」という証。 ③地域の会合で 地域で活動を今は表面化していない壮年部がいます。 このひとたちから「私は何もしていないから」という言葉がでてきます。 しかし、私はそうは思っていません。今、この場があること、この場を維持して広げてくださっていること、この「当たり前」は私にとって「ありがたい」ことなのです。 もし先輩たちがいなかったならば、もし私の代まで活動していなかったならば、私はこの場にすらいません。 そのため、私は「この場にいるため」に、前段階に取り組まないといけなくなります(この場をつくる、組み立てることから始めなければいけません) しかし、私はこの場をつくる、くみたてる...

会合の意味

  参加者みんながやる気いっぱいの会合も楽しい。 けれど、 頑張ってる人もこれから頑張る人も、 頑張る気ゼロの人もいろんな人が集い合ってる会合の方が、 人間味があって好きだなぁとも思う。 参加した理由、状況は様々だろうけど、そうした一人一人が「居心地いいな」と思える会合だといいな。

唱題中に感じる力

●戸田先生のご指導 先日、戸田先生の以下のご指導を見聞しました。 --------------------------------- 『日蓮大聖人様は佐渡に流罪されて、いつ飢え死にするか、凍死するか暗殺されるか分からない。ある意味では地獄です。 そうゆう状況の中で日蓮大聖人は、「日蓮は流人なれど喜悦はかりなし、日本一の富めるものなり」とおしゃったのです。そうして、開目抄とか観心本尊抄を書かれてる。安心しきっていらしゃるんです、何にも心配がない、そうでなければ、あのような大論文が書けるわけがない。 と、同じように、信心するということも悩みがなくなるんじゃないんだ。 どんな悩みが起きたって根本は安心しきっていけるということではなかろうか。 病気になった。 「さあ、御本尊を拝めば大丈夫だ」 「問題が起きた、さあ、信心で解決しよう」 とこうゆうふうに、なれば根本は安心しきっていけるということなんだ。』 --------------------------------- ●私の個人的見解 ありがとうございます。ご指導に縁することができまして。 そして、このご指導を見聞した時に、「ん!?このご指導って、(別の)あのご指導と絡んでいる、、!?」と感じ、考察しました。 ※以下、私個人の見解として、ご指導の意図を少しでも理解し、表現することにチャレンジします。 ●前提として ①まず、私は最強の生命状態は、「仏界ベースの仏界状態」だと思っています。 ※生命の状態の変化は「XX界ベースで、(一時的に泡のようにでてくる)YY界」と表現できる。生命がエネルギーを発生している状態を表現された(専門用語になりますが、『一念三千』法理の『十界互具』法理)。 ②そして、仏界に接続して自身の生命にエネルギー供給できる時間は、題目を唱えている時のみ(=題目が深くなっていて、境智冥合している時)。 逆に、題目を終えると仏界からのエネルギー供給はストップ。生命は元のベースの境涯に戻る。 でも、(=十界互具ですから)元のベースの境涯の中での”仏界”に、「題目でためた仏界ベースのエネルギーが流れ込む」。 ③流れ込んだエネルギーは、宇宙の働き(=諸天善神=重力/揚力などの自然法則含む)から見ると、非常に使いやすい万能エネルギー。 そして、このエネルギーは「使われようとする(変化しようとする=公理)」。 (題目に込...

将棋ソフトと人間の特性の違い

  2022.4.11に、藤井聡太氏の就位式がありました。 史上最年少で「五冠」を達成された。 すばらしい、です。私はずっとファンなので、このニュースを聞いた時に元気になれます。 「王将、竜王、王位、叡王、棋聖」の藤井氏、おめでとうございます! ところで、近年、将棋の世界にも「人とIT」の関係が生まれています。 昔、コンピュータの将棋ソフトと元トップ棋士(米長邦雄氏)の闘いがあり、ソフト側が勝利を収め「チェスに続き、将棋でもコンピュータは人間を追い抜いた」と当時、話題になったことを思い出します。 将棋ソフトの仕掛け(プログラム=アルゴリズム)は、可能性のある手筋を「しらみつぶし」に時間制限内で読みます。あたかも、砂漠の中のどこかに埋もれている宝を探すために、 「すべての砂をブルドーザーで順に掘る」 方式です。※当時1秒間に1800万手を計算していました。 しかし、人間には「コンピュータに真似できない手の読み方」があります。「大局観」に立った読み方。 あたかも、砂漠の中のどこかに埋もれている宝を探すために、 「経験と直感でここらへんにありそうだと予測してから掘る」 方式です。 プロ棋士の第一人者である羽生善治氏が、「『ここは攻めるべきか』『守るべきか』『長い勝負にした方が得か』などの方針は、『大局観』から生まれる。複雑な状況で判断を下す時は、この『大局観』で無駄な『読み』を省略でき、正確性が高まり思考が速くなる」(『大局観』角川書店)」と。 将棋の世界でいう「大局観」とは、私たちの生活行動でいえば「人生観」「世界観」に通じると思います。細かい情報を積み上げても、それをどう生かし何のために使うかという哲学がなければ、情報になりえない(単なる価値をうまない"データ"の集まりとなってしまう)。 データを情報化する力。これが、人間の強さ。ルールを創造する力にもなるんだとおもいます。「同じルールの中で最強を目指すコンピュータ」と「最楽のルールを探す人間」。将棋の世界もルールが変わっていくように思えます。 ※囲碁のように。囲碁は、先手(が有利なので)にハンデを課し"ゲームとして楽しむ(目的)"を目指そうとルール変更しています)。 創価学会も、ルールを時世に合わせて変えることがあると思います。 変えては行けない根本(日蓮大聖人根本、御書根本、...

勤行の姿勢チェックリスト

  このような情報を小耳にはさみました。 出典元が不明ですが、母(信心歴50年)に問いましたら「聞いたことがある」と。 池田先生のご指導ならばご存じの方、教えてください(私自身の目で、出典を確認したいからです)。 内容をみたところ、ドキリ。 私自身の「勤行のしかた」を振り返るよい機会となりました。丁寧な勤行が、無意識レベルで生活に影響を与えている、という点から派生している情報だな、と思います。 ※横スクロールで確認できます。 Case 勤行の姿勢 原因(根っこにある一念) 生活へ影響する一例 1 勤行をしない 宿業のため 宿命転換が難しい 2 勤行がしたくない 信心以外の所に真の幸福はない、ということがわかっていない いくら頑張っても宿業に振り回される 3 朝の勤行がぬける 元気で働けるのは自分の力でやっていると思っている その一日が無駄になりやすい 4 夜の勤行がぬける テレビ、酒、雑用に負けている(報恩の心がない) 翌日の闘いも不十分(人に嫌われやすい) 5 勤行が時々ぬける 信心に対する気の緩み 思わぬところで失敗する 6 勤行はするが身が入らない 自分ばかりの信心をしていて歓喜がない 生活もダラダラしたものになりやすい 7 どうしても急ぎ勤行になる 信心の原点が勤行であることがわかっていない あわてる割に功徳が少ない 8 朝夕の勤行をする時間が遅い 何をおいてもまず勤行の精神がない 他の人より生活のテンポが遅れる 9 勤行中、居眠りやあくびをする 勤行したつもり。でもやらないのと同じ。 生活に前進がなく空転ばかりする 10 目を閉じてしまう 邪宗の害毒が強い 一切を否定するので功徳がでない 11 キョロキョロわき見をする 信心に安定性がない 生活もふらふらしたものになる 12 合掌の手が下る 義務的に、惰性でやっている 人生に対して無気力になりやすい 13 合掌の手の位置がおかしい 信心が素直でない(合掌の手は"マイク"ではない) せっかく一生懸命になっても我見になりやすい 14 もじもじ、そこそこする 生命に落ち着きがない 何をやってもうまくいかない 15 経文を間違う、とばす 御本尊様にいいかげんなことを言っていると、気づいていない 生活に思わぬ狂いが生じやすい 16 十如是の数を間違う(3回でない) 他のことを考えながら行っている ...

同苦する前の心構え

●いつの新聞? 2022年3月12日(土) ●どのページ? 12ページの記事「WITH あなたと」 該当記事 ※無料の聖教新聞電子版で閲覧可能です。 ●記事概要 作家・絵描きの坂口恭平(きょうへい)さんが開設された「いのっちの電話」についてです。開設理由は、本家本元のいのちの電話はかけてもなかなかつながらなかった。だから僕がやろう!とされた。 ツィッターで自分の電話番号を公開したと。そのことに対して本紙(聖教新聞)のインタビューア)が多くのことをお聞きしております。 ●私の感想 私は、このような電話相談があることを初めて知りました。 「 いのちの電話(一般社団法人 日本いのちの電話連盟) 」さんの存在(以下からアクセスできます)の個人版を目指されておられる人がすごい!と思いましたの本ブログで取り上げました。 ここで目に止まった箇所は坂口さんの 『でも、自己犠牲はやらない。』 です。 このお考えって、 日蓮仏法の「同苦→抜苦与楽」のことを言い換えておられる、 と。 私は以前同じように窮地の人をなんとか励ましたいと思い動いていたことがあります。しかし、なかなかうまく私自身動けていない(成果がでていない)。 そして、 私はとある創価学会員にこのこと(窮地の人を励ましたい)を相談しました。 すると、このように言われました 「ageofsokaさん、そのような窮地の人との接し方は、同苦です。苦しんでいる心をしっかり受け止めてみようとする。実際にはすべて受け止めれるものではない(AGEOFSOKAさんとその方は違う人なのだから)けど、真剣に受け止めようと聴くのです。その姿勢を伝えるのです」 私は、思いました「すでにしてますよ・・・」と。 しかし、その方はさらにこう言いました。 「ただし、 同苦する時にAGEOFSOKAさんが理解しておく原理 があります。それは、 同苦した相手の今の心が(AGEOFSOKAさんの)縁となり、自分自身もその縁から同じ心が出る、という原理 です。その心がでてくるということを注意していないと、 無意識に同じような行動を選んでしまう恐れがある のです」 と。目からウロコでした。そのとおりでした。同じように「一緒に苦しむ」だけ、です。そして、だんだんと私自身も苦しくなっていたことに気づきます(だって、私が相談を持ちかけたくなっているのですから)。 突き放す...

効率の良い学習準備とは!?

  聖教新聞を読んだ後、社会に出る前/出た後の学習とは?!について個人的見解をお伝えしています。 ●いつの新聞? 2022年3月16日(水) ●どのページ? 4ページの信仰体験記事 ●記事概要 若きドクターの信仰体験記事です。 東京都渋谷区で脳神経内科医を勤められておられます。 ドクターですので生半可な勉強を学生時代にされた方です。 そしてその学んだことが、社会に出てからどう活かされたのか?活かされなかったのか? がまとまって記載されています。社会人向けの良い記事です。 該当記事 ※無料の聖教新聞電子版で閲覧可能です。 ●私の感想 この記事には、学習をするときのコツが隠されています。そのコツとは学習前準備です。 本記事で若きドクターはこのようにおっしゃっています。 『当初、1日10時間の勉強を半年続けたものの、模試の結果は振るいませんでした。 そんな時、男子部の先輩から1時間の唱題に挑戦すると、勉強の質が変わると聞いたので、素直に実践してみた。すると、漫然と過ごす時間がなくなり、勉強の集中力が上がることを実感しました』 私はこれを読んだ時、私も同じように実感しました。 そして、集中力が上がる、というだけではないな、とも思いました。 どういうことかといいますと、 1時間唱題すると、人間に備わっている色んな能力も底上げされている状態に変化しているということです。 ※題目前に集中するぞ!とか意気込んでいるわけでありません。単純にご本尊様を見ながら題目を休み休み1時間唱える、それだけの行動。 実際、1時間唱題した後は、自身の感受性がかなり豊かになっています。 (言い換えますと、普段気づかないことに気づくようになっています) (感受性って、自身の感情を揺れ動かしやすい力ですから)記憶力が上がっているようにみえます。 つまり、記憶するという行動は、思い出すために行う事前行動ですから「思い出すことが(感情を伴っているので)苦にならなくなっている」ということです(=結果、記憶力が上がっているようにみえるということです)。 アウトプットが苦にならないから、インプットの質が上がる(=集中力が上がっている)。そして勉強の質が上がる。そして、苦ではなくなるので「長時間の勉強もできるエネルギーがある(勉強の量)」 勉強の質と量を上げるための事前準備が、自然と題目という行動になっている...

お金を使うって訓練について

私は、以下のように考えて年一回、広宣流布のために自由に使っていただけるお金を寄付しています。 その中で身で読んだ(行動したことにより得られたもの)をご紹介 します。 ①(私自身の中にある)お金への執着との闘い  お金を使って、本当に欲しい物を集める。お金は道具だからです。そして、大事なものです。実は、欲しい物のほとんどはお金で手に入りません(見かけ上は手に入っているようにみえます)。 ですから、本当に欲しい物を手に入れる補助としてお金を使う訓練が必要なのです。 (どういうことかといいますと、私はお金がほしいのではなくお金をつかうことによって得られることがほしいのです。私はお金コレクターではない。しかしな ぜかお金ばかりみていると見失ってしまう生命のクセがあります。このクセとの闘いです )。   ②私が会館を利用するための必要経費  私自身を鍛えるため、そして鍛えられている人と出会うための場所です。また、地域の緊急避難所でもあります。  この場所(駐車場もあり、申請をすれば自由に利用できる大きな、きれいな設備は、私の生活の中で必要だと思っているからです。 ③大きなお金(法人などのレベル)を使う練習  私は法人としてのお金の使い方を決める時期がありました。  法人としてお金の使い先を決める場合、いくら使うと同じように大事な「どこに使う」という要素で頭を悩ませていました。いくら使うを決めるのは私自身(法人代表として)ですが、「どこに使う」は協力会社さんとのサービス契約にあたります。  ですので、「必要なお金が揃っている」 且つ 「お金を使う先が良縁である」必要があります。しかし、大きなお金を使う経験不足でしたので、費用対効果が悪く、結果、私の法人の助けにあまりならない」ことを身を以て知らされました。  (例、プログラマが成果物を納期以内に完成できていないな)   だから、「 (この法人が持つ)お金の使い先(縁)がすごく良くなる 」ことが必要です。  経営的には、 (十如是の一側面を強調している)ノーゲイン、ノーペインの原則 と言ってもいいでしょうか。 ④まとめ   つまり、「お金を十如是の法理」に当てはめてみますとこのような働きをしてくれます。  広布のためと目的を決めて、手段としてお金を使うと、  お金自体の境涯(価値)が変わり(如是力)、同じ金額でもより良い品や協力会...

題目前後の変化とは!?

最近、 御本尊様に向かって題目をすると、ふと思います。私の感覚が題目中の短い時間で、変化していくなぁ、と。以下のように変化していきます。 ①題目前 :1時間もするのかー(渋々。でも決めことだし、5分でもいいや) ②題目中(悩みが隠れている時):1時間でいいのか ③題目中(悩みが顕れている時):1時間しかできないのか(まだ満足しきってない) 自身ので、題目の捉え方(深さ)が変わるということを、段階に分けて振り返りました。 そして、この感覚の変化に伴ってだんだんと自身の中からエネルギーが湧いてきます。 私の中から、何か(エネルギーと表現せざるを得ない)が、どんどん出てきます。それを1時間上げきると、「あ、エネルギー溜まってる!」と確実に感じれます。そして行動したくなる。 だから、私は、この効果を有効に活用しようとしています。歴戦の猛者(題目の鬼)ではないので、エネルギーを貯めるのにひーこら言ってますから。使い所が大事なのです。 どのシーンでこのエネルギーを使いたいか!? 一番有効に活用する場面はやはり、他者との交流時。 出てきたエネルギーを、大事な人との時間を作るために使い切ろう、と決めます。そして足りなくなったら補充(題目)。 具体的には、大事な人に会う前に題目をあげておきます。 すると、私自身の準備が整うのか、心が落ち着き、その人と関連のないことでイライラしなくなります。 きっと、声を出す、一点を見るため集中する、呼吸を浅く速く、深くゆっくりと整える。体の姿勢を正す、といった身体的な効果も得られるのでしょうか、心だけではなく、体も動くための準備が整います。 生命の汚れ(雑草取り)を取ることと表現できますが、 心身に余裕が生まれることで、無意識の行動に丁寧さが生まれます。とっさのことにも余裕のエネルギーを使うため崩れません。 だから、生命力あふれる姿で、人と出会う。自分の機嫌を自分で取ろう、と心がけております。これが、次に勝つ因を創っていると思います。 (逆に、生命力が少ない状態で人と会うと、自分のことばかりになりがち。次に負ける因を創ってしまっていると思います(その人が心の底からもう会いたくない、と思われてしまうと思いますから) 一日に、複数の人と交流する場合は、移動中に胸中題目です(カロリーメイトを食べて一時的に栄養補給するが如く)。

SNS利用と世界悉檀

  第8回本部幹部会で原田会長は、創価学会全員に対して、以下のような公式なコメントを出しました。ITに関するコメントでしたから、私目線から見た見解を投稿します。 <対象> 聖教新聞電子版より抜粋しています ※https://www.seikyoonline.com/article/369E6224D9A6F2B9FD54FA96284AE4EB ー以下、抜粋ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 現在、オンラインの普及で、情報の共有が質量共に飛躍的に向上し、それが一人一人の成長と組織の発展につながっていることは、大変に素晴らしい変化です。 ①その一方で、 転送が容易なSNSでは一度、誤った情報や不適切な情報が拡散してしまうと取り返しがつかないため、十分な注意が必要 です。   ② 特に、地区などの組織でのSNSグループは、学会活動の一環として、中心者のもと、いわば公式に設けている ものです。したがって、 そこには組織連絡やメンバー間でのやりとり、学会本部や聖教新聞社などから公式に発信されたもの以外の情報や、人づての情報は、流さないようにしていきたい 。   ③そもそも ネット上にあふれる情報には、真偽や是非の検証ができないものも多く、中には学会利用や学会破壊をたくらむ人物が、その本性を隠して、学会員の関心を引こうと発信しているケースも、まま見受けられます。 「魔の働きは分断」と心して、団結固く、学会と広布の前進を守っていきたいと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー <私の意見> ①について、 おっしゃるとおり。 そのような特性があります。 取り返しがつかない、とは削除・訂正しきれない、 ということでしょう(ブロックチェーン技術による不特定者の複数承認システムの根幹でもある”削除しきれない”)。 十分な注意とありますように、禁止ではなく創価学会全員へこのような特性を配慮ください、とおっしゃっている。 そもそも表現の自由が権利としてありますから、各自の権利である発信自体を禁止することはできないため、このような発言に留められておられる。 ②について、 現在、使用用途が不明のSNSグループが散財している状況を憂慮されておられる。 SNSグループへ招待された後「このSNSグループってな...

グチは心を破るとは?!

愚痴を言うと、自身の心を破ってしまう。 私は、創価学会の活動中にこの内容を聞きました。 これってどういうことでしょうか? まず、愚痴を言っているわけですから、 愚痴を傾聴できる方と出会いその人に愚痴を話している 、ということになります。 そして、愚痴を言うということは、自身の内面を発散する行動の一つになりえます。 確かに、自分の内面を他の人に知ってもらえていると実感できると、自分自身に価値を感じます。そして、価値を感じると元気になり(生命力が湧いてきて)、行動を起こせるようになる余裕にも繋がります。 しかし、それって、その根本となる課題(原因)に向かえているのでしょうか? 単に一時的に発散行動によりスッキリしてしまって、 今は考えなくて良くなった、 のではないでしょうか?(仮に別の発散行動である昇華(スポーツ)をしても同じような状態になるのではないでしょうか?) でも、再びその愚痴を発生する環境(人や場所)縁すると、同じように不快を感じ、その愚痴がまた発生したりしませんか? ならば、また傾聴してもらってスッキリして、それを繰り返せばいいじゃないか、とこうなります。 ところが、これは繰り返せません。なぜでしょうか? それは、 傾聴している人が同様の内容を聴くことができなくなる からです。そして優しい人であればあるほど、傾聴力が高いと思われますが、すっとその愚痴を言う人から離れていってしまう。優しい人ほど、それとなく、離れたことがわからない程度に少しずつ距離を置いて疎遠となる。 そうなれば、きっと愚痴を吐き出すための新しい人(次の傾聴してくれそうな人)を探す行動をしがちです。 つまり、愚痴に対して抜本的な行動は 傾聴できる方を探すではない のです。 理屈(因果の法則)では、 愚痴は、生み出している自身の内面(因)とその愚痴を生み出すきっかけである環境(縁)が組み合わさって発生する。 だから、愚痴を生み出さないようにするには(理屈の上では) ①生み出している自身が変わる(原因の変化) ②生み出しているきっかけに触れなくなる(縁の変化) です。 でも、実際問題、①を変えることって大変ですよね(頭では分かっていても、不快!と感じてしまう無意識があるので、意識で変えようにも、どうしたものか、と。) この大変さをすごーく簡単にしてくださる手段があります。 それが、御本尊様に「決め...

壁の秘密

  素敵な名言です。 現在の悩みを受け止めれる力になりますね。 悩みは心が大きく強く成長している証拠。 ご参考に、希望対話の一節から 「新しい環境(未知)にはだれもが不安になりますが、不安になるのが当然なのです。 不安があることがいけないのじゃない、不安に心が負けてしまうことがいけない。 できることから始めることです。そして、自分はこれが得意だというものをまず一つつくってください。自分はやればできるんだという自信が頭がよくなる最高の薬になります。 なにか一つのことをやりとげられたら他のことも自然と応用できるようになります」 中学生、高校生に向けられた励まし。 一度、現状を受け止め、そこから一歩を踏み出してもらいたいという気持ちを強く感じます。ありがたい書籍です。ありがたい先生です。 このように励ましてもらえる環境って、社会に出るとなかなか出会えないような気がします。社会に出ると池田先生の凄さや温かさを肌に感じます。

人のため、社会のためって何?

「人のため、社会のために」というフレーズを目の当たりにします。 「人のため、社会のため」と言いましても、と感じることがありました。 どういうことなのでしょうか? 掘り下げてみましょう。まず、以下のケースを4つに分けれます。 (A)「多くの人」が持つ「深い」悩み を対象として解決する行為 (B)「多くの人」が持つ「浅い」悩み を対象として解決する行為 (C)「少数の人」が持つ「深い」悩み を対象として解決する行為 (D)「少数の人」が持つ「浅い」悩み を対象として解決する行為 (多くの少数のはその悩みを抱えている人が多い環境なのかどうか、 その悩み自体の優先度(緊急性×重要性)の高さで表現) では、 悩みを対象として解決 するって? その 悩みを生み出している欲求(心的な面 OR 体的な面)を対象として、 (1)ゼロからプラス (   0→1) (2)マイナスからゼロ(-1→0  ) に変化すること だと思います。(1)(2)ともにプラス方向に進んでいますが、悩みとしての深さは(2)が深いです。 キーワードは解決は変化の一種だということ、そして深さが違うということ。 困っていることが困らなくなる((2)のケース)方が、特段困っていないことがより便利になる((1)のケース)より解決したい。人間はそのようにできています。 ですから、ご本尊に向かって祈っていると宿業(過去にマイナスとなってしまった悩み)が顕在化してくる。(2)のケースに該当するので、本気になれるのです。 そして、変わる。それも自身の想定していた値より多く。 いいかえると、 御本尊に「悩みをぶちまけながら、どうなりたいか!のイメージを決めて、祈りまくって、(祈り中にでてきた具体的な行動計画を)行動する」と (3)マイナスからプラス(-1→0→1  ) へと変化する それをこのブログで、私の実体験の内容で、擬似的に体験いただけたら私は嬉しいです。

息を吐ききったら?

通常、息を吐いている最中の人に対して、なんらかの「香りや栄養」を吸わせることはできません。 しかし、息を吐き続けることはできません。息継ぎをします。 そして、息を吐いている最中は相手は快の状態にあります。 さて、 その吐いている息とは、その人の「今の悩み(愚痴)」であるとします。 愚痴を人に傾聴してもらうことは、快ですよね。なぜか? ①その傾聴している姿勢自体が、「私自身を大事におもってくれている」から ②愚痴を吐き出すことで「一時的ではあるが」溜まった愚痴を忘れることができるから この快の理由の②が、やっかいな点です。その愚痴を吐き出す本人にとって。 なぜなら、愚痴を生み出している根本原因が、傾聴相手に「コトバ」として吐き出されないからです。 傾聴相手が未熟であると「表面化している愚痴を対象として」助言なりの行動をとってしまう。でも、 「愚痴を生み出している根本」を対象としていないので、後日、同様の愚痴を生み出してしまう無限ループに陥りかねない です。 大事なポイントは、「(息を吐き出し続けることができないように)今の心の中の愚痴を一旦吐き出して貰うまで傾聴する」に加えて「でてきた愚痴を生み出している、その人が捉えているであろう環境を会話の対象として想像すること」です。事情を察するともいいます。 その事情。その人でないと本当のところはわかりませんから、理屈では(その人ではないので)他の人はわからない。だから、 想像力で自分の過去の体験を材料にしながら、補う 。 想像できた人間のみが、その方に必要となるアドバイスができるのです。 ですから、過去題目により乗り越えたことのある経験者が、今、同様の経験をしている相手に刺さる、のです。 人の縁って素敵ですね。そして、すごいですね! 創価学会の集まりの凄さは、この「傾聴」が多く行われている場を目撃できることです。傾聴してきてもらっている人が多いから、「今」傾聴(他者の事情をおもんばかる)できるのでしょう 。 私も傾聴を訓練しています。 以上

私たちがもつ財産は三種類に分けられる?!

創価学会では「日蓮大聖人御書全集」という本を教材としています。 この本には、 鎌倉時代の日蓮大聖人という方が当時のお弟子さんたちに対して送った手紙が閉じられています。 今回は、その手紙の中の一節(以下)を範囲として、見解を述べます ●対象とする文言 『蔵の財(たから)よりも身の財(たから)すぐれたり。身の財(たから)より心の財(たから)第一なり』 (日蓮大聖人御書全集 新版の1596ページより抜粋) ※日蓮大聖人から崇峻天皇に向けたお手紙の一節だそうです。 ●私の見解 財産は大事。これは納得いただけることだと思いますが、では、 大事ってどういうことなのでしょうか? 私は、 ①得がたいもの(希少性)があること。 ②失うと手に入らない ③人を幸せにするもの(自己、他者それぞれに笑顔が生まれるもの) という3軸、「大事さ」が決まると思っています。 ●3種の財とは? 上記、対象とする文言と、私なりの軸とをかけ合わせて、解釈しました。 蔵のたから =物質的なモノを所有している状態のこと。他の人に「所有権を明け渡すこと」ができるもの 身のたから =健康、技能。他の人に「所有権を直接渡すことができない」。蔵のたからを手に入れるための手段。 心のたから =人との間に繋がれた信用。身のたからを手に入れるための活力そのもの。 ●財産を持つ、ということをもう少し掘り下げると 蔵のたからを求めると、  売上第一、利益第一となる判断や行動を伴う。人から奪っても良い。自分に「所有権があること」が第一。 身のたからを求めると、  技能第一、健康第一となる判断や行動を伴う。人から奪っても得られない。自分が「(他者と比べて)どちらが上か」だ第一。 心のたからを求めると、 他者からの信用を蓄積することを第一として、判断や行動を行う。信用を得る手段として、助けることができる技能や蔵として現れている。 心のたからが基盤にあり、その上に身のたからと蔵のたからがる。 新たな疑問も生まれます。 では、心のたからを増やしていける行動とはなにか? これは、今後私が活動していく中で、頭ではなく実践した結果でお伝えできる日がくるとおもいます。