●とある人のご意見 「 心が弱った人への「正論の押しつけ」は単なる「暴力」です。動けない相手を追いつめる、優しさとは程遠い行為。 元気な時、 正論は道標になったり、背中を押して勇気を与えてくれる。 心が弱った時、 正論は、うずくまってる身体を、上から押し潰される様なツラさがある。 理想や正論どおりに頑張れなかった事は、自分が一番理解してて、もう十分に自分を責め終わってる。「心の余裕」ゼロの状態。 ●私の見解 おっしゃる通り。そのうえで、もう少し言葉を「変えてみて」本質を探ります。 心が弱っている、ではなく、 「頭」と「心」が分かれている状態、という見方をしてみます。 つまり、 「しなくちゃいけない(と頭でわかっている)けど、できない(という自分を自身で責める)」 自分は(一生成仏抄曰く)、御本尊と大聖人と等しい存在なのだから、自分を責めることは、広義の意味では謗法をしている、ことになる。 ※自分が 御本尊と大聖人と等しい存在とは思えないならば、広義の意味で大聖人のことば(一生成仏抄)を否定することになるため、不信ということになる。 ●結論 正論をかざすほうも、かざされれる方も、御書根本(大聖人がいわんとしていること)という軸で行動を振り返れるようになる(教学)ことが大事かな、と思います。