愚痴を言うと、自身の心を破ってしまう。
私は、創価学会の活動中にこの内容を聞きました。
これってどういうことでしょうか?
まず、愚痴を言っているわけですから、愚痴を傾聴できる方と出会いその人に愚痴を話している、ということになります。
そして、愚痴を言うということは、自身の内面を発散する行動の一つになりえます。
確かに、自分の内面を他の人に知ってもらえていると実感できると、自分自身に価値を感じます。そして、価値を感じると元気になり(生命力が湧いてきて)、行動を起こせるようになる余裕にも繋がります。
しかし、それって、その根本となる課題(原因)に向かえているのでしょうか?
単に一時的に発散行動によりスッキリしてしまって、今は考えなくて良くなった、のではないでしょうか?(仮に別の発散行動である昇華(スポーツ)をしても同じような状態になるのではないでしょうか?)
でも、再びその愚痴を発生する環境(人や場所)縁すると、同じように不快を感じ、その愚痴がまた発生したりしませんか?
ならば、また傾聴してもらってスッキリして、それを繰り返せばいいじゃないか、とこうなります。
ところが、これは繰り返せません。なぜでしょうか?
それは、傾聴している人が同様の内容を聴くことができなくなるからです。そして優しい人であればあるほど、傾聴力が高いと思われますが、すっとその愚痴を言う人から離れていってしまう。優しい人ほど、それとなく、離れたことがわからない程度に少しずつ距離を置いて疎遠となる。
そうなれば、きっと愚痴を吐き出すための新しい人(次の傾聴してくれそうな人)を探す行動をしがちです。
つまり、愚痴に対して抜本的な行動は傾聴できる方を探すではないのです。
理屈(因果の法則)では、
愚痴は、生み出している自身の内面(因)とその愚痴を生み出すきっかけである環境(縁)が組み合わさって発生する。
だから、愚痴を生み出さないようにするには(理屈の上では)
①生み出している自身が変わる(原因の変化)
②生み出しているきっかけに触れなくなる(縁の変化)
です。
でも、実際問題、①を変えることって大変ですよね(頭では分かっていても、不快!と感じてしまう無意識があるので、意識で変えようにも、どうしたものか、と。)
この大変さをすごーく簡単にしてくださる手段があります。
それが、御本尊様に「決めて祈る」です。
御本尊様に対して、ありのまま(自身の内面そのまま)、「大変なんだ!」とぶつける。そして、「あの人、あの環境(縁)をなんとかしてください」と祈る。
ご本尊様を見ながら、御本尊様に向かって愚痴を飛ばしながら、題目を上げ続ける。
すると、そのうち愚痴も出にくくなります。
つまり、「自身の内面」もしくは「環境」が変わっている。
これが妙法の功力。
もうその愚痴は生み出せなくなります。
自身が苦と思わなくなる もしくは その環境自体が変化して苦を生み出す縁が遠ざかる。
どのように変化するか、は凡夫にはわかりません(世の中の変化の法則すべてを理解しているわけではないから)。
しかし、世の中の変化の法則をつくっている妙法が、その変化を行うのです。世の中の変化をすべて学んでそれを一つ一つ実行していく、よりすごく簡単なのです。実は。
なお、私は愚痴を言うな、とは言いません。応急処置(一時的でも元気になる効果)として愚痴を発散する行為は大事だからです。
しかし「何度も繰り返し言ってしまっている愚痴」に対して、恒久処置をされたいのであれば、このような動き方があるのです。
ぜひぜひ、ご一考くださいませ。