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大学校への入校式



 本日男子部5期の大学校への入校式を終えてきました。

(そして、男子部4期大学校生の卒校式でもありました)。

県内すべてが一同に会合に集まる形です。

(そこに、推薦者・先輩方が集まり、合計約1000人位の参加者)


●卒業は1年後。その時、私は一体どうなっている?

多くの善知識(good friends)とどんどん縁している

同期4人とより親密になっている

自分の信仰を深める体験を多く積んでいる

自分の信仰を貫く芯を大事にして生活している

池田先生のことをより深く知っている

創価学会のことをより深く知っている

御書講義を何回も実践しました

選挙活動って何をするの?に堂々と歓喜を持って答えられます

新聞啓蒙って何をするの?に堂々と歓喜を持って答えられます

折伏って何をするの?に堂々と歓喜を持って答えられます

大事な友人と一緒にご本尊様に向かえています

人と接することが楽しくなっています(人と関わる力が自然と鍛えられている)

他人の事情をより実感として汲み取れるようになっています

性に合わない人と付き合うことで、私の眠っていた側面が刺激され発展する(やがて誰とぶつかってもびくともしなくなる強さを手に入れるサイクルに入っている)

おじいちゃん、おばあちゃんの最期をみれる(如実に見れる)



●入校式って何をしてきたの?

私は席に座って聴く形。60分。

式次第は以下の流れ

①聖教新聞電子版の紹介

②題目三唱、池田先生からのメッセージ

③卒校する人たちの代表6人がそれぞれ1年間の体験(ビフォー・アフタ)

④今年入校する人の代表1人の発表

⑤男子部の幹部(県をまたいだトップ)の人のはなし

⑥題目三唱

⑦(各地域ごとに)卒校正に対して送り状・品贈呈、入校生に対して品贈呈


●入校式後ってどううごくの?

目標として、2つの動きになります。

①自分が決めた10人と交流し、新聞啓蒙・選挙・折伏に挑戦

②家庭訪問(地域に眠っている未活者の掘り起こし)

これらを先輩に相談しながら(先輩と一緒に動きながら)1年間動きます。


●個人的見解

これらは、昔(未活時代)は「やらされている、学会に利用されている」と感じていたことも思い出しました。しかし、今はそれは浅かったと思います。なぜか?自分がこの人と今後とも仲良くなって深く付き合っていく状態は、私にとって幸せの形だからです。

世間法(カネをかせぐ)での付き合いは、浅く、満足しない。

良いときも悪いときも共につきあっていける友人を10人持っている、なんて幸せな世界である(今はそんな友達は2~3人います。その人たちと他愛のない話(時に突っ込んだ話)をして、仕事の合間などのスキマ時間で感覚共有できることに幸せを感じているから。このような友人を「範囲拡大することにチャレンジする」ことにほかならないのです。やらされているわけではなく、私の幸せのカタチと同じなのです


また、未活時代だったときの私は「ほっといてくれ」のタイミングもありましたが、逆に、「なんだか虚しいな」「自分を変えたいな」と思うタイミングもありました。元気な生命力あふれる前向きで明るい人と接したい、そして自分を変えたい、と思うタイミングがあった、といことです(しかし、自身から動くことはできなかった)。

だから、「学会のために掘り起こしを強制されている」ではないのです。「過去の自分(と同じ境涯)」に「今の元気な自分を見せに行く」行為なのです。無視されて当然(だって、自分が過去他の人にしたのだから。しかし今の私はそうではない。これは水が上流から下流に流れるように、単なる順番、なのです)。


●以下の本(非売品)を頂きました

内容は非公開とします。画像の中に埋め込まれる個人情報(EXIF)も撮影後に削除しております。