(本尊流布へお誘いを受けた)Tさんから以下の連絡をもらいました。
「御本尊授与式ですが、人数制限がかかり、参加が難しくなりました」
すぐに「わかりました、連絡ありがとうございます」と返答。
その後、題目をあげながら、この件について自問自答しました。
①ご本尊流布ってあらためて思うと、私はどう捉えているのか?
その方で一生に一度あるか、ないかの儀式と捉えています。
きっと、そのご本尊流布される方は、創価学会という知らない世界に飛び込み、生き方を変えて幸せになろうと決意されたのでしょう。
そして、その決意に対して、創価学会の先輩たちが敬意を示す場なのだろう。きっと、座談会などの集まりのように笑顔で明るく温かい空気に包まれるのだろうと思います。
②私はこの「参加表明したが、参加できなくなった」ことに対してどう捉えているか?
参加できなくなったことに残念です。
そして、自分自身の題目の少なさをなぜか実感しています。
なぜなら、私はどうやら(知的好奇心を満たすというような)物見遊山的な軽い気持ちで参加表明をしていたようです。本尊流布のことを軽く(言い換えると、当たり前)のように捉えている自分がいる。福子として生まれたときからご本尊がある生活であるので、あることが当たり前なのだと。
話によると、御本尊流布を決めてから、実際に授与するまでの間、「多くの葛藤や難」が襲い来ると。それも「授与を促した側(折伏した人)」および「授与される側(折伏された人)」の両方で起きる、と。現場を見たことがないが、先輩方がそのようにおっしゃっていた。授与を邪魔する働きが発生するのだと。
その邪魔する働きを抑え込んだり、減らしたり、避けたりするため、このご本尊流布の話をきいた創価学会の先輩方は題目をあげる、と(過去、自身が通った道なんだとおもいます)
私はその経験がないのです。だから、物見遊山と表現しました。そして、題目が足りていない(きちっと祈っていない)ことに気づいたのです。
私は私のことをする。
しかし、このような機会に縁できたことは、私にとって進歩です