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消えない苦しみ、消える苦しみ


この信仰をしていて良かったと思えること。


それは、

『何か自分の身におきた時に、どうそれを受け取り、どう行動していったらいいのか』といった、(何か起きた後にも)次のステップに、生命状態をうつすことができる

ただ悲観するだけの時間を少なくできる。


確かに、悩みに対してどうしていいかわからないけれども、そのうち、

「何かが起きても、もっともっと自分の中にある力を信じれるようになってくる。私の出せる力はまだまだこんなもんじゃない。必ず私は現状を変えることができるはずなんだ、と」思えるようになる。


ふと思います。

もしかしたら、私は「南無妙法蓮華経と唱え、活動をすることで」

私が私自身の中から湧き出てくる力を、完全に確信できるようになるために、自らが環境をぐらつかせているんじゃないかと。

環境(縁)を自ら動かしていて、もともと持っている生命の中の磁石(悪業からの作用)を表面にだしている。


なぜか?

それを乗り越え、環境にぐらつかなくなる心を定まらせるために。

命を鍛え続けて、生命を反映する鏡(心)をより強くキレイに磨こうとしていると。


もちろん、こんなことは誰にもわからない。

人の命(一念)には、必ず自分を引っ張る(磁石のような)「苦しみの元」を必ず携えている、といいますが、今苦しんでいる悩みは、次のどちらなのか?


①私の命の中にある、消えない業が、その時々の変化(環境)に引っ張られて、単純にでてきたケース

②私の命の中にある、消えない業が、妙法に縁して、消すために呼ばれて出てきたケース(転受軽重)


凡人だから、どちらなのか分からないところではあります。

今、目の前にあがってきているその苦しみは、表面上同じような悩みにみえるが、決して同じ結果や報にはならない、ということはわかります。

後から振り返ると。なぜなら、「同じような環境でも、同じように苦しまなくなっているから」。その自分が弱かった環境に対して、無効耐性がいつのまにかついているような。


でてきては祈り、でてきたは祈り。必死にやる。

これ以上はできない、でも、そんな自分を、容赦なく超えてくる苦しみ。


「消えない苦しみ」と「消そうとする行動」を繰り返していく。汚れがどんどんでてくる鏡を磨き続けるようにこすりまくっている。


すると後から振り返ると、その過程を確実に前に進んでいる自分が居て、そして、いつのまにか、想像していた自分の更に上に今の自分になっている。


結果、

環境が徐々に整い、そのような同系の悩みに対して縁しても「あ、それ卒業してるよ。」と、安心することが増える。

1日が充実していて嬉しいなぁ、良かったなぁ、という気持ちになることも増えてくる。

「妙法ってすごいな!、日蓮大聖人のおっしゃること、池田先生のご指導は、たしかにそうだ!疑いようがない」と


2.ご参考

池田先生(青春対話)からの引用です。

「いな、人生そのものが観念論ではわからない。生きるとは観念ではなく、実践であり、実感であり、厳然と事実の上に刻まれてゆく歴史です。」

「大事なことは、浮上してきた悩みから逃げないことです。悩みを背負い続ける勇気です。

たとえすぐに答えがでなくても、悩みと格闘し続ける。そうすれば、いつかあなたは「答えの中にいる自分」に気がつくはずです。」


以上