●一言で結論
池田先生が、世間(海外)から称えられること。
うれしい。
どうして嬉しいのでしょうか?
(人それぞれではあると思いますが私は)自分が大事にしている人が、世間から認められる。ということもあります。
わたしが好きな、尊敬している先生(多くのことを学び、多くのことを指摘くださり、善の方向へ導いてくださる、温かく厳しいお人)が、笑っておられる姿をイメージでき、私もほっこりするのです。
しかし、
私は、さらに以下のことも嬉しいのです。
①池田先生が代表
その地域やその業界の人が、「池田先生を称えるに値する行動と成果を蓄積している」ことの証であるから。
その地域や業界の代表という意味で、”池田先生”という1つの形に対して、「その地域やその業界の人」を称えている結果なんだとおもいます。先生の書籍や活躍をお伝えした人もその称えられている一人です。
②めぐりめぐって
池田先生を称えることで、その地域の「今後の人(未活者、未信心者)」の後押し(援護射撃)となるから。
よりよい「環境(条件)で活動のスタートをきれる」。
これは、「先輩たち活動者が乗り越えてきたおかげ」です。
「同じ苦労をその後輩がしなくてすんでいる」ということに他ならないです。
これが、「国土世間の境涯向上」の道理なんだとおもいます。
「五陰世間、衆生世間、国土世間」が境涯を顕す場。それらの総量で、人の幸せの総量が変わる。死して、その人の功徳が「国土に残っている」という証。
③地域の会合で
地域で活動を今は表面化していない壮年部がいます。
このひとたちから「私は何もしていないから」という言葉がでてきます。
しかし、私はそうは思っていません。今、この場があること、この場を維持して広げてくださっていること、この「当たり前」は私にとって「ありがたい」ことなのです。
もし先輩たちがいなかったならば、もし私の代まで活動していなかったならば、私はこの場にすらいません。
そのため、私は「この場にいるため」に、前段階に取り組まないといけなくなります(この場をつくる、組み立てることから始めなければいけません)
しかし、私はこの場をつくる、くみたてる事なく、利用できて訓練に励めています。人がいる。
先輩たちの功績です。
次は私の番です。形は時代によってかわっていくでしょうが、本質は変わりません。私は私が感じでいる今の苦労を乗り越えて、後輩が同じ苦労をしないように国土世間に積んでおくこと。
これが、広宣流布の一つのかたちなんだなーと思います。完成はない。ただ、流れがよどみなく脈打ち続けること。
ありがとうございます
以上