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投稿

【素敵な学会員】SNSで誠実な振る舞いに縁しました

●はじめに 良い話です。SNSで素敵なアクションをされる方と縁しました。 SNS上で、とある方(Aさん)が「池田先生のご指導」を投稿なされていました。 その方に対して私からアクションを起こしました。 すると AさんはSNS上でできる素敵で堂々とした対応 をなされました。私には誠実な方に思えましたし、スピーディな方でもあると思いました。SNSという戦場は、きっと今後、学会員の主力戦場の一つになると思います。知見を少しでも集めておきたい。Aさん(学会の支持者)がどう対応なされたのか。一つの参考となりえると思いましたので取り上げました。   ●SNSでやりとりをしようと思った経緯 Aさん「誰がどう言おうと、何をしようとお題目には敵わないのです」 私はこの投稿をみてこう考えました。 (この投稿は、たしか池田先生のスピーチの一部(指導)のはず。もし私がAさんのように池田先生や題目を知らない方(想定する架空のBさん)に話した場合、Bさんはなんて返してくるだろうか。さまざまだとおもうけれど、単純に考えた時、    「なんのことですか?」 「えっ、どうしてですか?」 「どういうことですか?」 さらに、もし、私がAさんのように発言・投稿し、Bさんに上記のように返されたら、どう反応するのだろう。 私なら、こう答えるだろうけどそれは一つの角度でしかない。Aさんならどう受け答えされるのだろうか。SNSでの戦いの知識として、また、一つの選択肢として経験を積んでおきたい。 と。そのため、Aさんに「仮想のBさんとして」反応を返しました。 ●SNSのやりとり Aさん「誰がどう言おうと、何をしようとお題目には敵わないのです」 私「敵わない、とはどういうことなのでしょうか?いいかえますと、 なぜ敵わなくなる、のでしょうか?」 Aさん「リプありがとうございます。お題目あげる時にいつも自分に言い聞かせている先生のご指導なのですが、お題目の力はそれくらい偉大だからではないでしょうか。」 私「返事ありがとうございます。 先生の指導だから、という理由が通じない・琴線に触れない機根や境涯の方に対して、どのようにお伝えできるものでしょうか。何かお考えや言い換えなどありますでしょうか?(先生の指導だからXXという理証や文証は、通じない機根や世代がいるためです)」 Aさん「そういう方たちのために悩まれていて素敵ですね。

プラス感情は長続きしない

このような意見があります。 「プラス感情は長続きしない(良い時は喜ぶがそれが続くと”当たり前”になってしまう)。 マイナス感情は長続きする。ずっと「マイナス感情とその出来事」を覚えている」と。 これって、、、牧口先生がおっしゃっていることと同じ意味になるのでしょうか。 ●牧口先生の指導 『信心する前は病気ばかりしていた人が、信心のおかげで健康になってもあたりまえと思って、感謝を忘れている人が多い。損をしない得に感謝すべきではないか。闇夜の提灯には感謝するが、太陽のありがたさを忘れているのではないか』 という一節があります。 ●御書 天界に魔は潜む、にも近い表現にもなるのかもしれません。プラス感情(天界の喜び)は長続きしない。当たり前になる、とは増上慢となるということ。「その当たり前が執着となり、その条件を無くすことを恐れてしまいそれを無くすまいと行動を起こす。第六天の魔王が天界に住むとはこのことを言われているのでしょうか。 ●牧口先生とは 私は、牧口先生が大好きです。 私にとって100年以上も前に生誕された「歴史上の人物」に近い。はずなのだけど、すごく身近に感じるお人。牧口先生は、子供のために多くの心と労力を使われた。そして、法華経を世に出すくさびとなってくださった。戸田先生をも世に出された。ただ、ひたすらに「一徹」を貫いた大石。 生き様が、、かっこいい。そして、、温かい。戸田先生や池田先生に比べ、私はなぜか「寡黙で実直なイメージ」があります。しかし、そのイメージ。武士のような職人のような「断固たる意志」をぶれない軸として生き抜かれておられる、ように捉えています。

子育て経験者の母が奥さんを褒める

母の息子の子ども(孫)が誕生しました。 その息子の奥さんの二女にあたります。 母は奥さんの「長女への行動」を褒めました。 (その褒めた内容は奥さんには直接言わず、私に言いました。私はさりげなく伝えられる機会が持てればその奥さんに伝えようとおもっています) その奥さんは「空間づくり」をしたからです。 どういうことでしょうか? それは、 「奥さんから二女が見えていて」、「長女から二女が触れられる」空間。 長女は3歳です。 しかし、長女に「幼児だから触らないで」とは言いません。 代わりに長女の近くに奥さんがいながら、長女に次女を触れる「体験」 をさせています。どうやって「自分より弱い力を持つ存在」と「仲良く慣れればいいのか」を体験させようともしています。 長女は「次女がいるから、私が邪険にされているー」という気持ちを持たせないように配慮しています。 ただ、(長女から)次女を遠ざけるのではなく、どうやって触れるのかという「長女と一緒になって、次女を育てる」空間を構築しようとしています。 母は言いました。 「〇〇さん(奥さんの名)は、賢い人」 そういう目線で見れて、そういう行動を取れる母にも奥さんにも脱帽です。 (むしろ奥さんの夫(=私の弟)のほうが。。。夫はその女性だらけの空間に入っていけるのでしょうか笑)

【感想】法華経を読んで(第二十四品)

(法華経の24品目である) 妙音菩薩品第二十四( みょうおんぼさつほんだいにじゅうし) の一箇所を読んだ、私の感想です。 1.内容 妙音菩薩品第二十四より一部抜粋します。 『妙音菩薩は、さまざまに変化し身を現して、この娑婆国土にあって多くの衆生のためにこの経典を説く菩薩だ。 一切衆生にそれぞれ知るべきものを得させる方法を取るのだ。 もし声聞の形でもって救済できる者には、声聞の形を現して法を説く。 縁覚の形で救済できる者には、縁覚の形を現して法を説く。 菩薩の形で救済できる者には、菩薩の形を現して法を説く。 仏の形で救済できる者には、仏の形を現して法を説く。 このようにそれぞれ救うべき者に随ってその者のために形を現すのだ。 さらに滅度(死)することによって救済できる者には、滅度(死)を示現す。 』 2.感想 これを読んだ時、思いました。 これって、 牧口先生と戸田先生の関係なんだ、と。 戸田先生はおっしゃったと伺っています。 「牧口先生の慈悲は私を牢獄へ連れて行ってくれた」 牧口先生は滅度をもって、戸田先生を「私は地涌の菩薩だ。法華経を思い出した」境涯になされた。 もし牧口先生が軍部弾圧に屈していたり、牢獄で退転なされていたら、戸田先生は「獄中での覚醒をなされていたのだろうか」と、おもいます。 戸田先生は獄中で一度牧口先生にお目にかかるというシーンがありますが、戸田先生は牧口先生の存在があってこそ耐え抜くことができ法華経を身でよむ機会を維持できた。 言葉じゃないですね。頭で理解でもない。「信じるとはこういうことだ!」と身をもって実践され、それを戸田先生が受け取ったんですね。 戸田先生が覚醒されたことを、牧口先生は生前では知り得なかった。師匠って、、すごいです。 以上

正論の効果

●とある人のご意見 「  心が弱った人への「正論の押しつけ」は単なる「暴力」です。動けない相手を追いつめる、優しさとは程遠い行為。 元気な時、 正論は道標になったり、背中を押して勇気を与えてくれる。 心が弱った時、 正論は、うずくまってる身体を、上から押し潰される様なツラさがある。 理想や正論どおりに頑張れなかった事は、自分が一番理解してて、もう十分に自分を責め終わってる。「心の余裕」ゼロの状態。 ●私の見解 おっしゃる通り。そのうえで、もう少し言葉を「変えてみて」本質を探ります。 心が弱っている、ではなく、 「頭」と「心」が分かれている状態、という見方をしてみます。 つまり、 「しなくちゃいけない(と頭でわかっている)けど、できない(という自分を自身で責める)」 自分は(一生成仏抄曰く)、御本尊と大聖人と等しい存在なのだから、自分を責めることは、広義の意味では謗法をしている、ことになる。 ※自分が 御本尊と大聖人と等しい存在とは思えないならば、広義の意味で大聖人のことば(一生成仏抄)を否定することになるため、不信ということになる。 ●結論 正論をかざすほうも、かざされれる方も、御書根本(大聖人がいわんとしていること)という軸で行動を振り返れるようになる(教学)ことが大事かな、と思います。

人数における感情の役割

●はじめに 「  人は、1人になると「孤独感」、2人になると「劣等感」、3人になると「疎外感」を感じる」 という意見を耳にしました。 ●所感 これは「人数が変化すると感情も同時に変化する」という事実を、「苦しさ」で偏向させている意見です。 どれも「苦しい」という面から表現しているから、苦しくなる。 そして以下の事実へ「結論づけようとしている」。 「本当の自立は、一人称だろうが二人称だろうが三人称だろうが、変わらない自分でいる事」と。これはおかしい(変わらない自分などない(はじめの人数による感情の変化という事実を実は否定しているから)。 ●裏側には この発言をする人の奥底にあるもの。 それは「私の意見は価値があるから、私の言うことを聞いてね」。 事実を折り混ぜ「自分の都合の良い方向」へと「解釈する」方法です。 ●対処1 言い返せばいい。心の中で。 「どう変わるかが大事じゃない?というか、私は、どれも「楽しい」と感じれるような自立をしたいんだ」と。 事実を交えた偏向意見の看破+発信こそ、悪を悪と見破る闘いだと痛感します。 ●対処2 逆(マイナスをマイナス化する表現)で打ち消す。 例、 1人になると「(劣等感も疎外感も感じないのだから)劣等感や疎外感を感じたら1人の時間で自身をケアしよう、ケアを助けよう」、 同様に 2人になると「(孤独感も疎外感も感じないのだから)孤独感や疎外感を受けたら2人の時間でケアしよう、ケアを助けよう」 3人になると「(孤独感も劣等感も感じないのだから) 孤独感や疎外感を受けたら3人の時間でケアしよう、ケアを助けよう 」。 と。 ほら、孤独感も疎外感も劣等感の「ケア」は2つの選択肢(味方)があるじゃないですか。 以上

指導力とは

1.結論 大白蓮華(2014年10月)よりの抜粋です。   指導力とは 「題目を唱えることです。 御本尊に 責任を全うしたい、幸福になってもらいたい、と願っている。 それが指導力です。 才覚や策や政治性を指導力というのではありません。」 2.所感 策や要領や効率という「題目をせず、頭で考えたこと」はどうしても、「自身の偏見や執着、境涯をベースとして、自身が無意識レベルで”選択”していることとなる」。 つまり、相手のことを、そもそも鍛錬中の未熟な鏡で見てしまっているから、どうしても凡夫なので、認知のゆがみや狭い知識からの判断が起きる。 御本尊が、ご用意くださった、その人とともに自分自身も成長をさせていただけるチャンスを、スルーしている、とも言えます。 私も肝に命じる。 「その人の幸せと成長を祈る」 「(祈ってでてきたご仏智(= 随縁真如の智)が具体的な行動をお示しになるから)その行動を行う」

消えない苦しみ、消える苦しみ

この信仰をしていて良かったと思えること。 それは、 『何か自分の身におきた時に、どうそれを受け取り、どう行動していったらいいのか』といった、(何か起きた後にも)次のステップに、生命状態をうつすことができる ただ悲観するだけの時間を少なくできる。 確かに、悩みに対してどうしていいかわからないけれども、そのうち、 「何かが起きても、もっともっと自分の中にある力を信じれるようになってくる。私の出せる力はまだまだこんなもんじゃない。必ず私は現状を変えることができるはずなんだ、と」思えるようになる。 ふと思います。 もしかしたら、私は「南無妙法蓮華経と唱え、活動をすることで」 私が私自身の中から湧き出てくる力を、完全に確信できるようになるために、自らが環境をぐらつかせているんじゃないかと。 環境(縁)を自ら動かしていて、もともと持っている生命の中の磁石(悪業からの作用)を表面にだしている。 なぜか? それを乗り越え、環境にぐらつかなくなる心を定まらせるために。 命を鍛え続けて、生命を反映する鏡(心)をより強くキレイに磨こうとしていると。 もちろん、こんなことは誰にもわからない。 人の命(一念)には、必ず自分を引っ張る(磁石のような)「苦しみの元」を必ず携えている、といいますが、今苦しんでいる悩みは、次のどちらなのか? ①私の命の中にある、消えない業が、その時々の変化(環境)に引っ張られて、単純にでてきたケース ②私の命の中にある、消えない業が、妙法に縁して、消すために呼ばれて出てきたケース(転受軽重) 凡人だから、どちらなのか分からないところではあります。 今、目の前にあがってきているその苦しみは、表面上同じような悩みにみえるが、決して同じ結果や報にはならない、ということはわかります。 後から振り返ると。なぜなら、「同じような環境でも、同じように苦しまなくなっているから」。その自分が弱かった環境に対して、無効耐性がいつのまにかついているような。 でてきては祈り、でてきたは祈り。必死にやる。 これ以上はできない、でも、そんな自分を、容赦なく超えてくる苦しみ。 「消えない苦しみ」と「消そうとする行動」を繰り返していく。汚れがどんどんでてくる鏡を磨き続けるようにこすりまくっている。 すると後から振り返ると、その過程を確実に前に進んでいる自分が居て、そして、いつのまにか、想像していた

池田先生が称えられること

 ●一言で結論 世間から称えられることが嬉しい理由は、 「池田先生を称えるに値する行動と成果を蓄積していることで、その地域の「今後の人(未活者、未信心者)」の後押しとなるため」 ●詳細 池田先生が、世間(海外)から称えられること。 うれしい。 どうして嬉しいのでしょうか? (人それぞれではあると思いますが私は)自分が大事にしている人が、世間から認められる。ということもあります。 わたしが好きな、尊敬している先生(多くのことを学び、多くのことを指摘くださり、善の方向へ導いてくださる、温かく厳しいお人)が、笑っておられる姿をイメージでき、私もほっこりするのです。 しかし、 私は、さらに以下のことも嬉しいのです。 ①池田先生が代表 その地域やその業界の人が、「池田先生を称えるに値する行動と成果を蓄積している」ことの証であるから。 その地域や業界の代表という意味で、”池田先生”という1つの形に対して、「その地域やその業界の人」を称えている結果なんだとおもいます。先生の書籍や活躍をお伝えした人もその称えられている一人です。 ②めぐりめぐって 池田先生を称えることで、その地域の「今後の人(未活者、未信心者)」の後押し(援護射撃)となるから。 よりよい「環境(条件)で活動のスタートをきれる」。 これは、「先輩たち活動者が乗り越えてきたおかげ」です。 「同じ苦労をその後輩がしなくてすんでいる」ということに他ならないです。 これが、「国土世間の境涯向上」の道理なんだとおもいます。 「五陰世間、衆生世間、国土世間」が境涯を顕す場。それらの総量で、人の幸せの総量が変わる。死して、その人の功徳が「国土に残っている」という証。 ③地域の会合で 地域で活動を今は表面化していない壮年部がいます。 このひとたちから「私は何もしていないから」という言葉がでてきます。 しかし、私はそうは思っていません。今、この場があること、この場を維持して広げてくださっていること、この「当たり前」は私にとって「ありがたい」ことなのです。 もし先輩たちがいなかったならば、もし私の代まで活動していなかったならば、私はこの場にすらいません。 そのため、私は「この場にいるため」に、前段階に取り組まないといけなくなります(この場をつくる、組み立てることから始めなければいけません) しかし、私はこの場をつくる、くみたてる事なく、

会合の意味

  参加者みんながやる気いっぱいの会合も楽しい。 けれど、 頑張ってる人もこれから頑張る人も、 頑張る気ゼロの人もいろんな人が集い合ってる会合の方が、 人間味があって好きだなぁとも思う。 参加した理由、状況は様々だろうけど、そうした一人一人が「居心地いいな」と思える会合だといいな。