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【2022年5月座談会御書】開目抄



 私がもし座談会で御書講義を行うならば、以下のようにお伝えしようと思います。

※(過去の大白蓮華、聖教新聞を参考)私の個人的見解も含まれております


●スクリプト

大白蓮華の48ページを開いてください。

今月の拝読御書は、開目抄(かいもくしょう)です。

〇〇が御書講義にチャレンジさせていただきます。


御文(おふみ)です。

われ、ならびに わがでし、しょなん ありとも、 うたがうこころ なくば、

じねんに ぶっかいに いたるべし。

てんのかご なきことを うたがわざれ。

げんぜの あんのん ならざることを なげかざれ。

わがでしに ちょうせき おしえしかども、

うたがいを おこして みな すてけん。

つたなきものの ならいは、やくそくせしことを、まことのときは、わするるなるべし。


●通解(つうかい)です

わたし、ならびに わたしのでしは、しょなんがあっても、うたがうこころが なければ、しぜんに ぶっかいに いたることができる。

しょてんの かごが ないからといって、うたがってはいけない。

げんぜが あんのんでないことを なげいてはいけない。

わたしのでしに あさゆう、このことを おしえてきたけれども、うたがいを おこして みな、しんじんを すててしまったようである。

つたないものの しゅうせいとして、やくそくしたことを、いざというときには、わすれてしまうものである。


●このおふみは、
開目抄という論文の一節です。
開目抄は、1272年に51歳の日蓮大聖人が、新潟県の佐渡へ流罪されている時、に執筆された書です。前半、後半に分けられています。

竜の口の法難で大聖人のお供をした四条金吾に託され、すべての弟子に対して送られた書です。
後に、弟子の日興上人(にっこうしょうにん)が、大聖人の多くの書から選ばれた5つの重要な書の一つに位置付けされています(五大部)。
位置付けされている理由は、「日蓮大聖人が末法の仏である」と明かされているからです。


開目抄は、説明中心の上巻と、想定質問と回答形式中心の下巻に分けられています。
今回の大百蓮華のおふみは、このうち、説明の後に門下にお伝えしたかったこと(=下巻の初頭)にあたります。

●開目抄は、
合計新版御書で72ページ相当の長文です。
そのため、開目抄をざっくりした構成でご紹介します。

開目抄の冒頭で、
尊敬すべき人は、主と親と師匠である。
学ぶべきものは儒学、仏法以外、仏法の3つがある。
と主張されます。

そして、対となる結論として、
尊敬する人は「法華経の行者」、学ぶべきは「法華経」である。
とされます。

つまり、尊敬する人とは?学ぶべきものとは?という2つの軸で話を進められようとなされた。
そして、まとめとして「法華経の行者の条件を、具体的※に満たしているのは、日蓮大聖人だ」と宣言なされます。
※(文証と理証と現証の3つの観点から)

●今回の拝読部分は、
この「法華経の行者の条件」に関係しています。
「難が必ず現れる。それを乗り越えている」が条件。要件(必要な条件)ですね。

今月のおふみで「我、ならびに我が弟子」と仰せなので、弟子を、法華経の行者として見ておられる。

日蓮大聖人は、このご執筆の直前に、イノチに及ぶ竜の口の法難と、現在進行系で佐渡流罪をお受けになられた。日蓮大聖人自体は、我仏であると知覚なされました(発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)した)。

しかし、その間、弟子たちも所領没収などの難を受け続けている。そして退転してしまっている。
だから、
「法華経を進めていくと、私のように難がでる。今までの弟子たちはほとんど退転してしまった。しかし、疑わず信を貫きなさい。仏の境涯になれる」
とお伝えしたかった。


●さて、ここからは、私の見解になります。
法華経の行者の条件で、ふと、感じたことがあります。

まず、釈尊が残してくれた「法華経の行者である、といえる条件(要件)」って、いわゆるマラソンのバトンにあたるのかな、と思いました。

つまり、釈尊が残したバトン(要件)を、末法時代の日蓮大聖人がを身を持って体験した難で受け取り(要件を満たした)、世の周りの人に実証として証明することができた」ということです。ほら、

釈尊が残したバトン、私、日蓮大聖人がもっているじゃないか。と。

だから、私たちは、大聖人のことを末法の御本仏なんだ、と理解できる。バトン、もってますね。たしかに。と。

仮に、もし釈尊がバトンを残しておられなかったら、大聖人の受けた大難が法華経の行者の条件だとしても、周りの人に証明できなかった(文証がない)。

大聖人自身がいくら、私は法華経の行者であると主張しても、誰も信じれなかった、ということになりえたから。

釈尊、凄い。1000年先の時代を考えられ、バトンを残されている。

そして、大聖人も凄い。それをきちんとバトンとして受け取られるまで、若かりし頃から多くの宗教を実際に学ばれ、そして多くの人が退転してしまうような大難を忍耐されて、身をもってそのことを実証された。

仏って自身の死後もずっと、生命を守ろうとなされている、全世界の人のすべての未来を対象にしている、と戸田先生か池田先生のご指導にあったことを思い出します。

その一端に触れられた気がします。

●ちなみですが、
今月の大白蓮華の75ページあたりに、
大聖人が若かりし頃に、難を受けることを熟慮し、決意なされお話が少し載っています。

法華経を公言すると、必ず難がおこる、しかし言わねば無慈悲で無限地獄。どうするか?いうか、いわないか_」「言う!と決意された」。よろしければそちらも。

以上、発表を終わります。チャレンジの機会を得て、学びを深めることができました。ありがとうございました!

●P.S.「なぜ5月に開目抄の一節をテーマとするのか?」
5月3日が創価学会の「正月」にあたリ※1、今年のスタートを切る月が5月。そして、「創価学会の肝」と池田先生がおっしゃった今回の拝読御書の箇所。これを見直すことで、去年と今年一年の信心のズレを知覚する、リセットタイミングでもある。過去の大白蓮華5月号に開目抄の一節が用いられている。

私は、そのように思う。善につけ悪につけ退転しないよう振り返っていきたい。


(※1)5月3日は「創価学会の日」です。それは、1951(昭和26)年のこの日に、戸田城聖先生が第二代会長に就任し、9年後(1960年)の同じ日に、池田大作先生が第三代会長に就任)






以上です