信行学が大事と伺います。ではなぜでしょうか?
私の経験を含めて、解釈してみました。
●信と学との関係
「信を固めるために、学がある」とは、どういうことでしょうか。
それは、
「信じる」の裏側である「惑わされない」ため。
言い換えますと、惑わしてくるものの”浅さ”を知り「そして足りない部分を気づき、相手の惑わせようとする意図に気づくこと」。
これは、自身や縁する人の防御に使える、と思います。
人は納得したことは行動できる(言動一致)。納得していないことを行動することは苦しい(言動不一致)。
納得してしまえば、「惑わしてくる人の求める(その人に利のある)行動」を自身がとらなくなる(言動不一致になるので)。
「信を固めるために、行がある」とは、どういうことでしょうか。
それは、
信じるの言い換えである「信じざるをえない」ため。
自身が行動して得られた結果は、信じざるをえない。
仮に自分が惑わた場合(元本の無明)でも、元の軸に戻してくれる磁石の働きを自身の中にもつことができる、と思います。
●では信はなんのため?
「信じる」しか「これからくる宿命転換の大難」に立ち向かえない。
つまり、
学(理屈)では、未来はわからない。
行では、向かう方向が定まらずぐるぐる”行動”だけしてしまう(解決のための行動ではなく、行動のための行動になり得るおそれがある)。
●信じる。何を?
開目抄にあります通り、
「大聖人の行動と結果」を信じること(人本尊(にんほんぞん))
と、
「大聖人が教えてくださった仏の出し方(法本尊)」を信じる。
この2つ、と思います。
そして、この2つを「現代風に実際に実行された、大先輩が池田先生」。だから、師、だと思います。
以上